「ロバートキャンベルさんと楽しむ秋の園遊会」で印象に残った一コマ その2

10月17日(土)に衆楽園迎賓館で開催された「ロバートキャンベルさんと楽しむ秋の園遊会」で、パネルディスカッション「曲水の宴を語る」が行われました。 そのなかで、印象に残った一コマ(実は二コマ目)について書きます。

 また、以下は実名入りとします。そのほうが伝わりやすいと思うので。

P1030096 パネルディスカッションでは「曲水の宴」に臨んだ四十人あまりの家臣が、どのような心境にあったかが話題となりました。

「曲水の宴」が開かれた明治3年当時、版籍奉還によって藩主の名称が藩知事になっていましたが、藩の体制そのものは江戸時代のまま引き継がれていました。
ところが翌年に廃藩置県が命じられ、藩は消滅して県となりました。藩知事は失職して上京が命じられ、代わりに新政府から県令(今の県知事に当たる)が派遣されたのです。これはまさしく激変に他なりません。

ゲストパネラーのロバート・キャンベル先生は、廃藩置県が参加者に予想されている中で「曲水の宴」が実施されたように弁じられました。

このとき平茂寛の心拍数は一気に跳ね上がりました。

パネラーのお一人尾島治先生は津山市郷土博物館の館長なのですが、同館の定期刊行物『津博2013.5』の中で、学芸員の方が、
「曲水の宴を開催した時点では、藩の廃止時期を誰も予見できなかったと考えられます」
「出席者たちが廃藩を前にした君臣の惜別の想いを胸に抱いていたと想像するのは早合点ではないでしょうか」
と、書いていたからです。
(なお「津博2013.5」からの引用を要約するために、意を損なわぬ範囲で原文を改変しています)

つまりキャンベル先生と尾島館長はまったく反対のお立場だったのです。

「曲水の宴」の参加者がどのような心境であったかによって、そこで詠まれた漢詩の解釈は大きく変わるはずです。それゆえに非常に重要な論点でもありました。

尾島館長が反論の口火を切るのか、それとも円満な雰囲気を大事に考えて黙っているのか・・・平茂寛は固唾を呑んで状況を見守りました。

そのときコーディネーターであった津山市観光協会の竹内佑宜会長が、パネラーに対して「当時の時代背景はどうだったのですか」との絶妙の投げかけをされました。

その後、具体的にどのような話になったのかは、竹内会長の素晴らしい采配に頭が痺れて聞き逃しました(笑)。
おおざっぱに言うと論戦にはならず、尾島館長とキャンベル先生とが交わす話を竹内会長がまとめ、「曲水の宴」の参加者の心境は「今後の重要な研究課題だ」との言葉で収拾されたと思います。
お見事な采配でした。まさに大岡裁き!

平茂寛は尾島館長の考えに賛成です。 パネルディスカッション当日に配布された資料中の漢詩十編を見る限り、確かに惜別の情は汲み取れません(なお、残りの二十編は、まだ平茂寛は見ておりません)。
人間は変化を予想するのが苦手な生き物であり、「いつかはそうなる」と聞かされていても、今の状態が明日も明後日も、それ以後もずっと続くことを前提に思考する傾向があります。
当時の参加者も同じだったのでは。

ところでキャンベル先生は、「曲水の宴」が一回だけ行われ、なおかつ町民のギャラリーまで集めたことに何らかの政治的な意味合いがあったはずだとの示唆をしました。
これには大いに頷きくなります。
そうなると、主催した側の人間は翌年の廃藩を予測していたのかもしれません。

ともあれ、創作意欲を大いに刺激された一コマでした。
平茂寛の時代小説家的な場面展開はこうです。

参加者のほとんどは、これからも同じ日常が続くと信じて「曲水の宴」に臨んでいる。だが、翌年の廃藩を予見している者が一人混じっていた。

その者は、他の参加者が読んだものと似たり寄ったりの漢詩を創るのだが、詩中に藩主への惜別の情をこっそりと込めた。
だが、参加者の一部がそのことに気づき、動揺を来す。
雅な雰囲気の中に走る緊張――。

こんな感じですかね。もっと素敵な設定ができるかも。とにかく考えているだけでわくわくしてきます。


「ロバートキャンベルさんと楽しむ秋の園遊会」で印象に残った一コマ

10月17日(土)に衆楽園迎賓館で開催された「ロバートキャンベルさんと楽しむ秋の園遊会」でパネルディスカッション「曲水の宴を語る」が行われました。
この中で印象に残る一コマがありました。

このパネルディスカッションにはロバート・キャンベル先生の他、津山市郷土博物館の尾島治館長、医師の小野陽子先生がパネラーとして登場し、コーディネーターを津山市観光協会の竹内祐宜会長が務めました。
その一コマとは・・・
衆楽園には、はじめ重臣や近習の者しか入れませんでしたが、その後、見世物芸などをするときには領民にも見物が許されるようになりました。領民が衆楽園に入れるようになった時期について、パネラーの一人から”明治になってから”と受け取れる発言(本人の真意は不明)があり、私はドキッとしました。津山市発刊の『津山城百聞録』には、明和年間だと書かれていたからです。

恐らく、
①衆楽園と命名された時期が、「衆楽雅藻」のもととなる「曲水の宴」が行われた年と同じだった。
②「曲水の宴」のときには、領民がギャラリーとして見物していたらしい。
③「衆楽」の名は、民に楽しんで欲しいとの思いから付けられた。
の理由から、そのような発言が引き出されてしまったと思うのです。

このとき、とても感心したのは、発言内容の誤りを最もよく知っていたはずのパネラーが間違いを指摘せずにスルーした点です。
真実を示すだけが正しいのではなく、本題と直接絡むような重大事でなければ、議論を聴衆に楽しんでいただくのを優先し、そのまま流す方がベターである――そのように考えたのではないかと思うのです。

人それぞれ評価は違うと思いますが、私には紳士的な行為に感じられました。

もうひとコマ、印象に残った事項がありまP1030093したが、それは後ほど。


ロバート・キャンベル先生とツーショット

キャンベル先生はとっても優しい方でした。笑顔も素敵。
日本語がとても流暢なので外国人であることを忘れてしまいそうになりました。

キャンベル先生は、津山で明治3年に開催された「曲水の宴」と、そこで詠われた漢詩集「衆楽雅藻」に関心をお持ちで、昨年に引き続きの来訪となります。

翌日は衆楽園迎賓館で開催された「ロバートキャンベルさんと楽しむ秋の園遊会」におけるパネルディスカッション「曲水の宴を語る」で、「衆楽雅藻」に関わる興味深いお話を伺いました。

「衆楽雅藻」は小説化したいと常々考えている題材ですが、この日のディスカッションを聞いていて、構想が広がり深まってのは言うまでもありません。

平茂寬のデビュー作『隈取絵師』を謹呈したところ「読ませて頂きます」と笑顔で返事をいただきました。P1030090


お茶会で着る和服ができた。

来月のお茶会で着る和服ができました。

帯の結び方がなかなか難しくて奮闘しているうちに汗だくに。

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ご指導下さった呉服屋「ちんがら屋」さんのお陰で、不器用な自分としては、わりと早く一人で着られるようになったと思います。

若干の発見も……。

例えば、帯の結びや袴の腰板があるためにヒップアップ体型となり、身体がスリムに
見えます(*⌒▽⌒*)。

小説家では、京極夏彦さんが昔出席したパーティーで和服を着ておられましたね。貫禄を感じました。

 

 

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家紋は「雪輪に十五枚笹」です(背中にあるが、写真では見えない)。

さて平茂寬の和服姿はいかがでしょうか?