世界遺産 京都・醍醐寺 特別拝観 夜の観桜会

3月29日に京都の醍醐寺で開催された「夜の観桜会」に行きました。
雨が心配されましたが、なんとか保ちました。やはり日頃の行いが・・・(^_^)。1

まずは醍醐寺の中にある、三宝院の桜。見事でした。次はアップで。2

桜を見たあとで、三宝院内部の拝観や、秀吉が茶の湯を楽しんだ純浄観(重要文化財・非公開)での抹茶、さらには、秀吉が「醍醐の花見」に際し、自らが基本設計したという庭園を見学しましたが、残念ながら撮影禁止でした。
豊かな刻を過ごしているうちに、日は暮れ、先ほど見た桜がライトアップされていました。3

三宝院から、光に案内されて、霊宝館に移動します。4

 

醍醐寺には七万点を超える文化財があるのですが、その一部が霊宝館で公開されています。

 

 

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ここの夜桜も凄い。さすがにツアースタッフお勧めのスポットだけありました。6

お弁当も豪華! もちろん美味しくかったですよ。
ちなみにこのツアー、お酒・ビールが好きなだけ飲めた点も最高でした。お替わりをもらいに行くと、お坊さんが給仕して下さるので、それがちょっと心苦しくて・・・。


居森幸子展〈和紙なりて〉 日仏会館にて開催中

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さまざまな素材を用いて、意欲的な創作活動に取り組まれている居森幸子先生の作品展が、〈和紙なりて〉と題して、東京都渋谷区恵比寿の日仏会館エントランスホールで3月24日(月)から始まっています(4月5日まで。日曜祭日は閉館)。img081

現在、居森先生は、画材の一つである和紙に着目され、和紙の繊維を解いていく手法で、独特の感触を感じさせる作品を次々に制作されています。

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こんなやり方で、じっくり時間をかけて創作されるそうです。

岡山県内での催しには参加している平茂寬ですが、今回は都内での展示ということで、残念ながら行けません。

首都圏にお住まいの方にはぜひ日仏会館を訪れて頂けたらと思います。パンフレットによれば、午後1時からは、居森先生は在廊されるとあるので、私から情報を得たことをお伝え頂ければ、有り難いです。


清水次郎長を超える山陽の大親分岡田屋熊次郎を調べる(3)

岡田屋熊次郎の生涯などを、岡長平著「色街ものがたり」の記述をもとに紹介していきましょう。なお、説明を分かりやすくするため、もとの記述で不足する部分を想像で補っています。事実と食い違っている部分もあるかもしれません。そこはご容赦を。

熊次郎は、安永七年(一七七八)に、宮内の片山町にある光畑家に生まれました。
光畑家は、柏屋という屋号で、片山町ではかなり名の知られた料理屋を営んでいましたが、熊次郎が青年期を迎える頃には、左前となっていました。P1020096

 

写真の家の場所が、柏屋のあったところ。近所を歩いていた高齢の方に尋ねると「おう。柏屋ならそこじゃ」とすぐに教えて下さいました。

 

 

そのため、熊次郎は十七、八ぐらいから、足守(今の岡山市北区足守)に、かご類の行商に出掛けて、一家を支えていたそうです。

それでも熊次郎は、持ち前の優れた才知と胆力、さらには侠気で、だんだんと男を売り出すようになり、当時、宮内の市の市頭(宮内で年二回開催されていた大市の責任者兼プロデューサー)をしていた江戸市一家の親分の弟分となりました。
文政二年(一八一九)に起こった騒動が原因で江戸市一家が解散を命じられました。江戸市には、熊次郎以外にも、たくさんの兄弟分や子分がいましたが、熊次郎は皆に押される形で江戸市の跡目を継ぎ、市頭となったのでした。熊次郎四十二歳のときです。

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先代の光畑家の主(熊次郎から数えて三代目の御子孫)が収集、作成された資料の数々。大学の先生方とも一緒に、熊次郎や宮内の繁栄について調べておられたそうです。


『悪采師』の舞台を巡る。鬼船俊次の表店がある「へっつい橫丁」

小説『悪采師』では、敵役として登場する任侠の親分・鬼船俊次の表店(今で言えば組事務所)を、浅草の「へっつい橫丁」にあるものとしました。
当時の切り絵図によれば、「へっつい橫丁」は、浅草北寺町通りから広小路に入る手前の三つ辻を南に入ったところです。

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上京の機会に「へっつい橫丁」を訪ねてみました。
切り絵図と現在の地理との整合ができず迷うばかりなので、浅草の案内所に飛び込みました。 スタッフはきれいな女性ばかりでしたよ。
初めは、ぴんとこない様子でしたが、パソコンで探してもらうと、ちゃんと見付かりました。案内地図をもらって、現地にさっそくGO!

訪ねてみると、雷門通りの喧噪からは外れた、ひっそりした場所でした。通り沿いの酒屋さんに聞いてみましたが、かつてこのあたりが「へっつい橫丁」と呼ばれていた記憶はないとのこと。時代の変遷で名前が廃れてしまったのかもしれません。

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へっつい橫丁(雷門通りから入るところ)

 

 

 

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へっつい橫丁(南に進んでみた。写真の右手あたりが鬼船俊次の大店の位置としてはちょうどよさそう)

 

 

 

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ついでに食事をした江戸前寿司で有名なお寿司屋さん。

 


清水次郎長を超える山陽の大親分岡田屋熊次郎を調べる(2)

岡田屋熊次郎の本拠地である宮内が、どのような経過で中国有数の歓楽街となったかについて簡単に説明しましょう。

時代は関ヶ原の合戦直前に遡ります。西軍総大将宇喜多秀家は、合戦の戦勝祈願を、吉備津神社で執り行いました。
ところが結果は、西軍の敗北に終わり、徳川家康は、これを重く見て、吉備津神社の社領一万八千石を一挙に百六十石へと減じました。これにより、もとは三百人もいた神官を八十余人へと減らさざるを得なくなりました。
それでも、寺社の運営には苦慮したため、幕府に、春秋二回、それぞれ三十日にわたり大市を開きたい旨を願い出たところ、認められました。さらに「御朱印芝居」と呼ばれる幕府の認可を受けた芝居興行も大市時に開催するようになり、大変多くの人が参集する結果となりました。
P1020076多くの人が集まるようになると、旅籠屋、酒屋、飲食店が次々とできていきます。初めは臨時の造りだったものが、常時営業可能なしっかりとした造りとなり、人手も不足してきたため、飯盛奉公人を雇い入れることを幕府に願い出たところ、これまた認許されます。
もう、おわかりと思いますが、この飯盛奉公人として臨時に婦女を雇ったことが宮内の遊郭の起源となるのです。

写真は吉備津神社の回廊の北側に見える駐車場。最初の芝居小屋はこの場所に建てられました。


『悪采師』が株式会社図書館流通センターの「新刊急行ベル」図書に選ばれました。

株式会社図書館流通センター(TRC)は図書館の総合支援を業務とする企業です。
P1020216具体的な業務の一つに、「週刊新刊全点案内」の発行があります。毎週火曜日に発行し、前の週に発行された新刊図書(平均1,354点)を網羅的かつ詳細にご案内する、図書館の選書用資料です。毎週3,500部発行し、日本全国の公共図書館の約2,800館が定期購読しています。
もう一つが、「新刊急行ベル」の選定です。これは、ベストセラーや、発売後では入手が難しい図書も含め、図書館と利用者が必要とする図書を、公益財団法人 図書館振興財団 が主宰する「新刊選書委員会」からのご意見をもとに選定したもので、「週刊新刊全点案内」の中で紹介されるとともに、「新刊急行ベル」契約を結んでいる図書館に迅速に届けるシステムです(以上、TRCのHPから抜粋、加工)。P1020217

今回、「週刊新刊全点案内」の1856号で『悪采師』が「新刊急行ベル」図書に選ばれました。文芸書部門では、十冊程度選ばれた中の一冊になると思います。
掲載されたページでは、平岩弓枝先生や連城三紀彦先生らの作品と並んでの紹介でした。嬉しい~。


清水次郎長を超える山陽の大親分岡田屋熊次郎を調べる(1)

江戸時代、宮内と呼ばれた、吉備津神社一帯は、日本でも有数の大歓楽街でした。そこには、全国で十カ所しかない幕府の許可を受けた芝居の劇場があり、茶屋、遊郭が軒を並べ、最盛期には昼夜を分かたず博奕が行われていたようです。
宮内を仕切っていた大親分は、岡田屋熊五郎と言いました。豪快なエピソードもいくつか残しており、江戸まで、その名をとどろかせていました。
岡山歴史研究会の大月基司さんにご案内を頂き、吉備津神社の周囲を探索し、今も残る、宮内の繁栄と熊次郎の活躍の足跡を調べに出掛けました。

まず始めに訪ねたのは、岡田屋熊次郎の後裔にあたる光畑家です。P1020077

 

 

 

 

 

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家の写真を撮らせて下さいと声を掛けたところ、快く応じて下さったのが、熊次郎の四代目の光畑さん。熊次郎とその妻幾野の位牌まで見せて下さいました。ご好意に感謝!

 

 

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戒名では誰なのか分かりませんでしたが、裏側に、ちゃんと熊次郎とありました。(続く)


厳しい顔をしたお婆さんを見た。

出勤時、岡山の町中で、それはそれは怖ーい顔付きのお婆さんを見ました。
お婆さんは、幼児を自転車の後部にある椅子に座らせ、ベルトで固定しているところ。ベルトの捻れ、しまり具合を微に入り細に入りチェックしています。
寸分の緩みも許さないとの意志が窺える真剣な目をしていました。恐らくは、孫を保育園に連れて行くよう、若夫婦から頼まれたのでしょう。
我が子よりも、孫を扱うほうが気を遣う、と、聞いたことがありませんか。可愛さや愛情だけでなく、我が子(幼児の父母)に対して、大きな責任を感じるからだそうです。
もし、この子を傷付けたら・・・と思うからこそ、いっさい妥協のない準備をしていたんですね。孫の面倒を見ることは、お婆さんにとって決死の大事業だったんです。
そう思ったら、お婆さんの怖い顔が、無性にかっこよく見えてきました。