小説「隧道を穿て」あとがき1

長期間の御愛読をありがとうございました。
8月14日から12月20日まで、およそ4ヶ月間の連載となりました。

「横書きで読みにくい」との声や、「ブログ連載では読む人に限界がある。書籍で出版したほうが良い」などの、ご指摘を頂きつつも、途中で止めるのも残念だったので、とにかく一通り終わりまでやりました。

この小説の主人公中村嘉芽市、周介はともに実在の人物です。嘉芽市が指揮を執って作った隧道には、今も、こんこんと水が流れ、堀坂の田に水と豊穣をもたらしています。

この隧道は、私の自宅から車で30分もかからない場所にあります。江戸時代の人物の成し遂げた仕事を、間近に見ることができるんです。しかも、現在も立派に機能していて……。
加えて、作品中にも一説ありますが、中村周介にはミステリアスな(「誇張した」が適当か?) 逸話が残っており、とても気持ちを惹かれました。

平茂寛は、津山、岡山の素晴らしさを、全国に伝えたいと日頃から考えています。これぞ、まさに恰好の題材だったわけです。


最終章 怒濤から得たもの(8月14日の投稿から連載している小説の最終回です)

文政六年(一八二三)の春。隧道が繋がってから三月が経った。
嘉芽市は、隧道普請の現場だった場所に立っている。隣にはサキがいた。
二人は、武三郎を弔うため、様々な想い出が蓄積した地を訪れた。
嘉芽市は、隧道貫通の五日後、陣屋を訪ね、清助に全てを報告した。
清助は、事態の重大さに戦いたのか、「亀よ、他言無用ぞ」とだけ、命ずるに留まった。
武三郎についての処置も曖昧を極めた。藩元に、武三郎が行方知れずとなったとの報告は為されたはずだったが、藩からの具体的な指示は、何も下りてこなかった。
幕府は、内紛が露見する事件を些かでも表沙汰にはしたくないのだろう。
結局、武三郎の死を含め、全ては闇に葬られた結末となった。
当然、武三郎の葬儀すら、行われず仕舞いだった。
故に、嘉芽市は、ささやかながら、サキとの弔いを思い立ったのである。
武三郎が水中に没した辺りに、二本の線香を立てた。抹香の匂いを吸い込みながら、膝を地に落とし、静かに合掌する。線香の火が絶えるまで、二人はじっと黙し、冥福を祈った。
微かな温もりを帯びた風が、耳元を撫でて行く。武三郎と頭を突き合わせ、夜明けまで普請の設計を語り合った場が、つい先日のように思い返された。
やがて、嘉芽市とサキは立ち上がった。示し合わせたように、二人同時に、南側坑口を見下ろす。
坑口からは、さあさあと音を立て、水が流れ出ていた。
サキは、春光に瞳をきらきらと輝かし、眩しそうに嘉芽市の顔を見詰めた。
「堀坂の者どもは、みんな、大喜びしております」
水流は、石垣を組んで設えた水路に導かれ、堀坂に拡がる田に繋がっていた。
嘉芽市は、隧道普請を、安全で確実な治水の仕組みづくりのために利用したのだった。
武三郎の捜索を打ち切った後、嘉芽市は、取水口となる北側坑口に上げ下ろしの水門を設けた。
加茂川の水位が通常ならば、豊かな水源を、隧道を通じて堀坂の田に供給する。ひとたび、川が荒れんとする姿を見せた時には、水門を閉じれば、洪水が防げる。
鼈(すっぽん)の口の先――岩山の光景を見た時に、脳髄を走り抜けた構想を、そのままに具現したのだった。石工三千九百九十人、役夫二千九百三十八人を要した工事だった。
サキが、小首を傾げながら訊ねる。一児の母親とは思えぬ、小娘のような愛らしさに、嘉芽市の頬が緩んだ。
「それにしても、せっかく、御公儀から有り難い任官の御話があったのに、どうして受けなかったのですか?」
将軍家斉は、嘉芽市の技能と采配を伝え聞き、高く評価した。そこで、天文方の家臣として江戸城に入るよう、迎えが来たのである。
ところが、嘉芽市は断った。
「田熊の地で、もっと算法の学びを深めばならぬ。いつ、先生が御元気になられてもよいように、代わりを務めておかねばならぬしな」
一昨年の大水で為した己の過ちを精算したと思うと、以前にも勝る算法への意欲が、むくむくと盛り上がって来た。
隧道普請で垣間見た江戸城内の汚濁の中に、身を投じる気にはならなかった。
純粋に、算法に自らの全てを投じたいとの決意を新たにしている。
サキは、期待通りの返答に満足したらしく、満面に喜びを浮かべた。
嘉芽市は、ちいさく胸を張ると、山形山の裾野を見上げる。
「この隧道は、単に、水の道を繋いだけではないのじゃ。儂にとっては、算法と人の心を繋いだ道なのじゃ」
静かにサキが頷く。
嘉芽市の手の上には、サキの白い手がそっと重ねられていた。(了)


第八章 亀、走れ! 9 (8月14日の投稿から連載している小説です)

夜が明けると、雨雲はすっかり去っていた。
隧道からは、まだ水が流れ出ている。もっとも、昨夜の破壊的な勢いには、ほど遠く、水も澄んでいた。
坑口の前には、噴き出た水の勢いを物語る、深く大きな窪みが残っている。
嘉芽市は、人夫どもを四方に散らし、水に流された者どもの捜索に掛かった。
すると、次々と刺客どもの骸が見付かった。遺骸は七体。皆、濁流に全身を捏ね回されたらしく、傷だらけになって死んでいた。
ところが、武三郎と左京が、何処にも見当たらないのだ。
「武三郎様は、見付からぬか?」「左京の亡骸はなかったか?」
嘉芽市は、人夫どもに、回数を忘れるほど、問いを重ねた。
そのうち、耳寄りな話が入った。下流の村で、長身の侍が、運良く助けられたと、言うのだ。
「武三郎様か?」
嘉芽市は、一瞬、色めき立った。
だが、確認に走らせた人夫の報告は、連れない内容だった。
「違いまする。「痩せた御方で、見上げるほど大きくはなかった」と、御侍を助けた者が、申しておりました。お顔が白かったとか。夜が明けるとともに、御姿を消されたそうでございまする」
「くっ、左京か……悪運の強い奴じゃ」
嘉芽市は、吐き捨てるように呟いた。
だが、左京の前途は暗いだろう。
左京に指示を与えていた人物が、江戸城内にいるはずだった。密命を果たせなかった左京は、江戸にはもう帰れない。戻れば、厳しい沙汰が待ち受けているからである。
むしろ、これからは、口封じの追っ手の目を逃れながら、細々と、闇の中に生きていかねばならぬだろう。
まるまる三日間の捜索にも拘わらず、武三郎の行方は、とうとう知れなかった。


第八章 亀、走れ! 8 (8月14日の投稿から連載している小説です)

嘉芽市は、サキの手を強く握り、ぐいぐいと引っ張った。小振りな手の造りを、掌中に感じながら。
膝よりも嵩を上げた水が、足の運びを鈍らせた。早く進もうと藻掻けば藻掻くほど、泥水が腿に絡み、抵抗が増す。忽ちにして、両足が鉛の如く重くなった。
進みは捗らず、たかだか、三十間にも満たない行程が、百里にも千里にも感じられた。
焦りと呼吸の苦しさ故に、胸の芯が焼けるように熱くなる。
「足を止め、このまま水の中に倒れ伏したら、どれほど楽だろうか?」
誘惑が、幾度も心を過ぎった。
それでも、暗闇の中に小さく薄ぼんやりと見える坑口を目指し、無我夢中で進む。
ようやく、南側坑口が、等身大の大きさになった。
途端に、背後で、どうっと轟音が響く。ついに、土嚢が崩れ去り、大水が隧道に流れ込んで来た。
嘉芽市は、坑口を出ると、サキの手を、一旦そこで離した。坑口の脇をよじ登り、次いで、サキを引っ張り上げようとする。
手を結ぼうとした時だった。坑口から、猛烈な勢いで水が迸り出た。激流は、瞬く間もなく、サキの身体を飲み込む。
「離すものか!」
頭から水を浴びながら、手を伸ばし、必死に、華奢な手首を掴んだ。
ところが、噴流の力に対し、嘉芽市は、あまりに微力だった。
二人の絆は脆くも断ち切られ、サキの顔と身体は、濁流に揉まれながら、沈んで行く。
「サ、サキ……」
嘉芽市は、豪流の中に手を翳したまま、へたり込んだ。
目の前で起こった出来事が、咄嗟には信じられない。
己の手から、サキの手首が、ぬるっと抜けた時の感触を思い出すと、ぞっとするような絶望感に襲われ、身体中に震えが走った。
「嘉芽市様あ! そこ、そこにっ!」
人夫の声に、半ば放心状態でいた嘉芽市は、はっと顔を上げた。
すると、サキの身体が、嘉芽市から十間ほど下った辺りで、横倒しのまま、浮き上がっているではないか!
「水神の仕業か?」
目を疑いながらも、全力で下流に走った。サキに追いつき、身体を抱き留め、水流から掬い上げる。
すると、サキを支えていた鬼の手が現れた。まるで、蓮の花が、泥から突き出ているように見える。
「た、武三郎様あ!」
嘉芽市は、鬼の手の持ち主の名を呼ぶ。
が、嘉芽市がサキを確保すると、役割を済まして安心したように水流に消えて行った。
嘉芽市は、呆然と見送る他はなかった。
次々と怒濤に揉まれ、人や物が、ぐるぐると渦を巻きながら流されて行く。
激しい水流を見ながら、サキの上体を強く抱き締めた。
ぐっしょり濡れ、冷たく、ごちごちに固まっていたサキの身体が、徐々に和らいで行った。


第八章 亀、走れ! 7 (8月14日の投稿から連載している小説です)

「ここじゃ、ここじゃあ!」
甲高い石工の声を耳にして、嘉芽市は振り返る。
土壁の反対側から、鑿の音がはっきりと聞こえた。ごそっごそっと、だんだん大きく激しくなっていく。
嘉芽市は、水や侍どもの脅威を忘れ、貫通の時を待った。
すると、がすっと音がして、土壁に子供の頭ほどの穴が開いた。
同時に、冷気を孕んだ風が、轟々と音を立てて顔を過ぎる。
重みのある霊気が、通り過ぎたようにも感じられた。陰陽師の説明通り、結界が破れ、家基の魂が一つに戻ったのかもしれない。
風が止まると、南側から掘削をしていた人夫どもが、ひょっこりと顔を見せた。わあわあ叫び、喜んでいる。
人夫どもの動きが、さらに活発になった。汗を飛び散らせ、寄って集って、土壁を崩して行く。
穴が拡がるほどに、測地が如何に正確だったのか明らかになった。隧道の左右のずれ幅は、北側基準杭のずれと、ほぼ同じだった。
侍どもは、しばし、ぽかんと様子に見とれていた。己の任務を忘れ、人夫どもと喜びを共有しているようにも見える。
穴は、あっと言う間に全開した。
嘉芽市は、崩した土塊を畚に集めさせ、人夫どもを次々と南側坑口に走らせる。
「こりゃ! 何をしておるのだ! 追えっ! 斬れっ!」
左京が、いつまでも手を拱いている侍どもに、堪忍袋の緒を斬らした。
片や、武三郎は、水の中に、ずぶっと片膝を落とした。苦しげに、肩を激しく上下させている。
これほどまでに疲労困憊した武三郎を見た記憶がなかった。窮屈な姿勢の維持と、長時間に亘る精神と筋肉の緊張が、武三郎を加速度的に消耗させているのだ。
だが、武三郎は、片膝衝いた姿勢で、顎を大きくしゃくり、侍どもを睨み付けた。
侍どもを一歩も前に進ませない構えを見せる。
「水が参ります。逃げましょう」
嘉芽市は、人夫どもの全員が逃げ出したのを確認し、武三郎を促す。
水が膝の高さまで来ていた。いかに屈強な武三郎であっても、今は、逃げる以外に手がないはずだった。
武三郎は、誘いを拒否した。
「拙者は、大丈夫でござる。今少し、狼藉者どもを食い止める故、先に行かれよ」
「何を仰います。武三郎様を残しては、逃げられませぬ」
ところが、武三郎は、凄まじい怒号を嘉芽市に浴びせた。
「おぬしが横におれば足手纏いなのだ。拙者のためを思うならば、早う、走れっ!」
嘉芽市は、武三郎の本意を掴み、黙礼する。
足元にいるサキの手を取り、引っ張り起こし、ざぶざぶと水を掻き分け、走り始めた。
嘉芽市の背後で、「もう抗う力はないぞ。懸かれいっ!」と、声が響いた。水を押し退け、駆け寄る音とともに、刃が肉を断つ音が聞こえる。
「武三郎様、申し訳ございませぬ」
嘉芽市は、心中で手を合わせながら、サキの手を引き、ひた走った。


第八章 亀、走れ! 6 (8月14日の投稿から連載している小説です)

激しい雨の音が、低い地響きとなって、隧道の奥まで伝わって来ていた。
いつ、川の水が土嚢を突き崩し、隧道内に雪崩れ込んでも、おかしくない。サキの言葉は、決して大袈裟でなかった。
だが、侍どもが、逃げ道を塞ぐ場所に陣取っていた。突っ切ろうとすれば、刃の洗礼が待っている。
人夫どもは行き場を失い、おろおろと狼狽え、一箇所に固まっていた。
嘉芽市は、腹に力を込めた。人夫どもに向かい、隧道内に轟け! と、ばかりの大声で命じる。
「掘削を続けよ! 穿て――穿つのじゃ!」
人夫どもは、言葉の意味を解しかねたらしく、目を右往左往させた。なにしろ、命令どおりにすれば、剣を構えた敵に、背中を晒す格好になるからだ。
嘉芽市は、侍どもの接近を阻もうと、両手を拡げ、さらに声を振り絞った。
「もはや、活路は土壁の向こうにしかない。血路を開くのじゃ。隧道を穿て!」
針鼠の如く串刺しされようとも、盾となり、人夫どもを守り通す――普請の指揮者たる凛とした覚悟を示したのだ。
あとは、普請の再開以来、培って来た、人夫からの信頼に懸ける他はなかった。
すると、嘉芽市の凄まじい気迫に呑まれたが如く、一人、また二人と、人夫どもは、鑿を手に、掘削面に向かい始めた。
侍どもは呆気に取られている。人夫どもが、刀剣の脅威を無視し、作業を再開したのだから。
いち早く己を取り戻した左京が、戸惑う侍どもを叱咤した。
「何をしておる。あの者どもを止めよ。皆、斬り捨ててしまえ」
左京の声に呼応したのは武三郎だった。しゃきっと剣を抜き放つ。
「ここは拙者が引き受け申した。誰一人として手出しはさせぬ」
侍どもは、前に進むどころか、身を固くして半歩後退した。
嘉芽市は、足元にひやっとした感覚を覚え、地面を見た。水が隧道の奥まで流れて来ている。
侍どもも、動揺は隠せなかったが、逃げようはしない。左京の命に背けば、死を免れないからだろう。
左京は、口元に余裕の笑いを浮かべ、ねちっこい指示を出す。
「焦るな。じわじわ攻めよ。さすれば、数馬とて、怖れる必要はない」
武三郎の身長は、隧道の高さと同じである。さらに、木枠の存在が、空間をさらに窮屈にしていた。膝を曲げ、中腰で構える武三郎の姿勢は、いかにも不自然だ。
左京は、武三郎の体力が長くは保たないだろう――と、見ているのだ。
と、なれば、武三郎が保ち堪えているうちに、隧道を貫通させなければならない。
人夫どもは、いつもは二人しか入らない場所に、四人が押し合い圧し合い入り込み、何物かに取り憑かれた如く、鬼神の勢いで槌を振るっている。
土壁の向こう側の石工も、こちら側の槌音に気付いたらしく、休んでいた掘削を再開した様子だ。
武三郎の腿が、ぶるぶると震えているのが分かる。強靱な肉体でも、さすがに体重を支える限界が近付いているのだろう。
疲労を嗅ぎ取った相手が、間合いを詰め始めた。
水は足首の上まで来ていた。土嚢が決壊するまで、もう幾ばくも時はない――と、思えた。


朝日杯FSは⑤コディーノから内枠流し

今年の競馬も、あと3週になりました。
なかなか当たらないですねえ。
時々、覗いてくださる人は「この人って、どんだけ当たんないの!!」と思ってるのでは。
今週の朝日杯FSは⑤コディーノから。内枠から行こうと思ってたので、文句なし。
ヒモは①~④。露骨に内枠有利で選びました。

①ザラストロは、今回、踏ん切りを付けた乗り方をすると思うので注目してます。⑨エーシントップだって不敗馬。というわけで①ー⑨の馬番連勝も購入しておきます。

本日は朝7時30分から町内会の大掃除でした。気温は最近になく高め。とても気持ちよく溝掃除ができましたよ。


第八章 亀、走れ! 5 (8月14日の投稿から連載している小説です)

嘉芽市の動転はなかなか収まらない。
「これは何かのお間違いでは? 左京様は、武を用いようとする御同朋をお諫めになっておられた。ために、今は、御命を狙われておる御立場のはず」
左京は、色白の顔に酷薄な笑いを浮かべた。
「鈍い奴め、まだ、わからぬのか? 拙者は、「普請を不首尾に終わらせて欲しい」と申したであろうが。さもなくば、血が流れるとも警告したはず。せっかくの温情を汲み取らず、お前は愚かにも普請を続けた。なれば、刀にものを言わせねば致し方なかろう」
嘉芽市は、頭の混乱をなんとか収めようとする。
第一印象の好感度が高すぎて、本性を顕した左京の実像を、なかなか受け容れ難かった。
「では、杭を動かしたり、飯場や鍛冶場に火を着けたのも……?」
「いかにも。拙者の命によるものよ」
左京は、目的達成のためには手段を選ばない、狂気じみた冷酷さを持った男なのだった。徹底した冷血が故に、熱気溢れる好人物を演じきれたのだ。
長い睫毛を、二度三度、はしはしっと動かすと、左京は狡賢そうに目を細めた。
「それにしても、杭の移動をよく見破ったのう。褒めておこう。だが、気付くのが遅かったようだな。邪魔な陣屋の役人どもは去った。今日こそは覚悟せよ。数馬殿も、嘉芽市と一緒に死んで頂くとしよう」
続けて、人夫どもを見回して、薄目の唇を小刻みに動かす。
「ささ、早くここから出て行け。お前らには用がない」
蒼くなった人夫どもは、左京の言葉を聞き、今にも逃げ出そうとしている。自分たちだけは助かるものと、信じているようだった。
だが、左京には、人夫どもを生かしたまま逃がす気など、さらさらないはずだ。
安心させ、自ら刀刃の間合に入って来るよう仕向けているだけなのだ。
隧道の中で全員を葬れば、首謀者が露呈する危険がない。つまり、顔を明かした時点で、左京の腹は決まっている。
「皆、聞いたら駄目じゃぞ。離れたら、確実に斬り殺される」
嘉芽市は、動揺する人夫どもを、一生懸命に宥めた。
声の余韻と入れ替わりに、たたた、と、草履の底で板を叩くような音が、隧道内に響いた。
すると、小さな人影が、侍どもの間を後方から突き抜け、嘉芽市の足元に転がり込んで来た。
「早う逃げて! もうすぐ、川の水が穴の中に入って来る」
サキだった。嘉芽市の足元で、はあはあと息を荒げている。
自らの命を捨てても構わぬ覚悟で、危機を報せようと、隧道に飛び込んで来たのだ。


第八章 亀、走れ! 4 (8月14日の投稿から連載している小説です)

蝋燭の光を浴び、白刃が煌めいた。
「直ちに作事を止め、ここから立ち退けい」
首領の男が凄む。ついに〝強硬派〟が、自ら、はっきりと姿を晒した。
嘉芽市は怯まなかった。師の仇を鋭く睨み付け、普請の指揮者としての気概を示す。
「身共らを立ち退かせて、どうなさるおつもりか」
「言うまでもない。隧道は通させぬ。支えを崩し、埋めるのだ」
黒覆面から覗く目が、丸太で組んだ木枠に向けられた。
武三郎がすうっと前に進み出る。
「普請の邪魔はさせぬ」
短く低い声を響かせた。太刀の柄に手を遣り、臨戦の構えを見せている。
首領は、武三郎に視線を移すと、黒布の下にある口を、もごもごと動かした。
「其処もとは、井汲武三郎とか名乗っておるらしいな。だが、本名は違う――目瀬数馬だ。公儀の徒目付にして、おそらくは、隠密を役とする者」
嘉芽市は動転のあまり、吸い込んだ息を思わず止めた。
だが、武三郎が幕府の隠密とすれば、時折、姿を消した理由が説明できる――江戸に戻って、幕府に状況報告し、新たな指示を受けていた――と。
「それにしても中は蒸すのう。数馬殿ばかりを晒し者にしてはいかん。拙者も、鬱陶しい布は外すこととしよう」
首領は、首を軽く捻りながら、滑らかな動作で黒覆面を取り去った。残りの者どもも倣う。
嘉芽市は、覆面の中から顕れた顔を見て、今度は、雷に打たれたような衝撃を覚えた。
「左京様! ま、まさか、そんなはずは?」
人違いではないか――と、何度も見直す。だが、目の前の人物は、左京に他ならなかった。


第八章 亀、走れ! 3 (8月14日の投稿から連載している小説です)

嘉芽市は、北側の坑口に到着した。
すぐ横を流れる川から、地鳴りを思わせる激流の音が響いている。土嚢を今にも乗り越えんと時宜を窺う水が、ぴしゃりぴしゃりと不気味な音を立てていた。
南側と同様に測地を始める。もちろん周囲は真っ暗だ。提灯の灯りを頼りに、声を掛け合い、作業を続ける。
再び、強い雨が落ち始めた。方位盤がぐっしょりと濡れて行くが、今は、そんな些事に構っている場合ではない。
泥を踏む濁った足音、雨水に濡れた衣が擦れる音、測値を読み上げる鋭い声――人夫どもは、刻々と迫る危険にも、怯む態度を些かも見せなかった。てきぱきと測地が進んで行く。
「おっ、違う。ずれておる」
嘉芽市は、興奮で声を上ずらせた。声と一緒に吹き出た息が、白い煙となって雨の中に消えて行く。
基準杭は、「引照点」から導かれる位置になかった。嘉芽市が推測した通りの状況が、北側の基準杭に発生していたのである。
嘉芽市は、「引照点」から求めた位置に、新たに杭を打たせた。次いで、基準杭と新たな杭との位置関係を、方位盤と間竿で測定する。
「武三郎様、二尺五寸も、ずれておりまする」
二尺五寸は、大きな差だ。普通であれば、坑内測地の際に、杭の位置の異常に気付いても不思議ではない。が、巧妙な〝強硬派〟の手際にしてやられたのだった。
「なんと小賢しい手を……」
武三郎も、〝強硬派〟の手口のしたたかさに、怒りを通り越し、唖然としている。
「よしっ、切羽に入るぞ」嘉芽市は、人夫どもに命じた。
湿り気を帯び始めた隧道の地面を蹴りながら、嘉芽市は、併走する武三郎に声を向ける。
「偽の基準杭から真の基準杭に向けての方位角は、凡そ三十度でございました」
「ふむ。杭の間の間尺が二尺五寸となれば、杭は、真の位置から二尺二寸近くも後退しておった――ということでござるな。これでは、予定通りに、穴が出逢わなかったのも当然でござる」
武三郎は、すかさず答えた。正弦、余弦の値を諳んじているらしく、暗算も速い。
「左様でございまする。ただ、当初、身共が積もった位置よりも、既に一尺五寸以上掘り進んでおりまする。しからば、あと一尺も掘り進まぬうちに、隧道は出逢うものと思いまする」
「掘削する位置も、東に一尺三寸ほど、ずらさねばならぬのでは?」
「いえ、東西のずれは、大きな問題ではありませぬ。身共は、設計に当たり、一尺半の塵を見込んでおりまする。一尺半に、此度の一尺三寸を加えても、三尺足らず。隧道の幅が六尺ありますれば、特段の手を講じずとも、隧道は落ち合う算用にてございまする」
掘削面に着くと、石工どもが、なかなか貫通できないため、げんなりとして、手を休めていた。
嘉芽市は、「あと、ほんの少しじゃ」と、石工どもを励まし、さらに掘り進むよう指示した。
すると、再び高まった槌音に同調するかのように、隧道内に、どやどやと足音が響いた。
嘉芽市は、役人どもが纏まって戻って来る理由を想像してみた。が、これと言って、思い当たる節はない。
ちゃきっと、鯉口を切る音が聞こえた。武三郎が、顔を引き締め、身構えている。嘉芽市は、只ならぬ事態を嗅ぎ取り、身を引き攣らせた。
やがて、頼りない蝋燭の光の中に、侵入者の姿が次々と顕れた。
全部で八人の男どもが姿を見せた。皆、黒覆面に顔を包み、太刀を抜き払っている。