第七章 槌を振れ 10 (8月14日の投稿から連載している小説です)

十月も中旬となった。
「ふうむ」
嘉芽市の手捌きの良さに、親分が唸っている。極く短期間に格段と鍛冶の腕前を上げていた。
修行を始めて、十日も経たぬうちから、一通りの作業をこなすようになったのだから、まさに驚異的である。町見術で鍛えた並外れた観察眼に加え、寝食の時間を惜しむほど、貪欲に修行に取り組んだ結果だった。
もちろん、仕事の早さや、鑿の出来映えは、まだ、親分の足元にも及ばないが、
「あと少し腕が上がりゃあ、使える鑿ができるようになりますらあ」
と、お墨付きを貰うほどの上達ぶりだった。
親分も、飲み込みの早い嘉芽市が、とりわけ可愛いらしい。身体中に、火傷や傷を拵えながら奮闘する様子に目を細めている。まるで、我が子の成長を楽しんでいるかのようだ。
だが、全てが順風満帆とは行かなかった。
鍛冶場に武三郎が訊ねて来た。日頃、顔に感情を出さない武三郎が、珍しく沈鬱な面持ちで口を開く。
「掘削が、さっぱり捗らぬ。やはり、陣屋の役人では駄目でござる」
早く、熟練した石工を手当しなければならなかったが、嘉芽市が鍛冶修行に忙殺されていたため、棚上げにしていたのだ。
「岩を叩き、音を聞いて見立てたところでは、岩の層は、あと三尺ほどで終わりそうでござる。手の立つ石工が入れば、一気に普請が進むに違いござらぬ」
「分かりました。それでは今晩から、堀坂の村を一軒一軒、しっかりと回り、以前に石工として働いていた者どもを説得いたしまする」
武三郎の赤黒い顔の表面が、火炉の光を浴び、てらりと光った。
「しかし、堀坂の石工どもは、祟りや事故を理由に、普請から逃げ出した者ばかり――言わば、不安で凝り固まった連中でござる。説き伏せるのは至難の業では……」
「近場では、堀坂以外に手慣れた石工は居りません。遠路から石工を連れて参るだけの日が足りぬ以上、他に手立てはございませぬ」
嘉芽市は、唇を引き締め、決意を口にした。
「祟りの噂も含め、元を辿れば、全ては身共が不徳から発するところ。裏を返せば、身共以外に、堀坂の者どもを翻意できる者はおりませぬ」
親分が、渋い表情で二人の会話を聞いている。愛弟子を他の者に奪われる気持ちになっているのだろうか?


第七章 槌を振れ 9 (8月14日の投稿から連載している小説です

鍛冶は、火炉への火入れから始まる。
次いで、地金(鑿の本体となる古鉄を再生して製造した軟鉄)と、刃金(鑿の刃となる、蹈鞴(たたら)で製造された炭素を多く含む硬い鉄)を火炉で熱し、槌打ちして鍛え一体化する。
再び熱し、槌で鍛え、鑿の形に成型する。成型ができたら、焼き鈍し(加熱し、藁灰の中に入れてゆっくり冷やす)する。
焼き鈍し後、鑢(やすり)で仕上げの成型をし、焼き入れ(加熱後、水で一気に冷やす)する。 最後に焼き戻し(低温で加熱して粘りを出す)をし、水研ぎして仕上げる。
それぞれの工程で、加熱の温度が異なり、材料の色目を見て、適温まで熱したかを判断しなければならない。
また、成型時には、槌を使いこなす熟練が必要だ。慣れないと、思った場所をうまく打てない。
実際に鑿を製造するためには、三月弱しか残されていない期間の早い内に、腕を熟達させなければならない。親分が言うまでもなく、途方もなく無茶苦茶な話だった。
だが、早朝から暗くなるまで、嘉芽市は、時に親分の鉄拳を浴びながら、必死で槌を振るった。親分の手元もよく観察し、加熱の度合いについては、親分が閉口するほどに、質問し、色合いを見極めようとする。
一方、普請現場は、藩士が働き始めたことで、俄然、活況を呈した。鍛冶修行で外に出られない嘉芽市に代わり、武三郎が現場の指示をした。
〝強硬派〟は動きを見せなかった。相手が陣屋の藩士では、手も出せないし、水神の祟りの効果も期待薄だからだろう。
嘉芽市は、研ぎ場の砥石に額を押しつけ、眠っていたのに気付いた。
額の皮に砥石の形が写り、つきつきと痛む。鍛冶修行の疲れが溜まり、鑿を研ぎながら、寝てしまったのだろう。
冷え切った屋外から鍛冶場に入ると、火炉の熱で暖かく感じる。だが、鍛冶場内に、ずっといると、雑な造作の壁の隙間から冷風が吹き込み、案外この風が寒かった。
肩に汗臭い衣が被せられているのに気付く。親分が、修練の最中に寝込んでしまった不肖の弟子の背に、自らの衣を掛けたに違いなかった。
親分は、素知らぬ顔で、緋色に変色した刃金を叩き、火花を散らしている。


第七章 槌を振れ 8 (8月14日の投稿から連載している小説です)

嘉芽市は、切刃を離れ、鍛冶場に走った。
火事の後、突貫で建て直された鍛冶場は、焼け落ちる前よりも粗雑な作りとなっていた。屋根も壁も、焼け残りの壁板をまじえた寄せ集めの材料で、できている。
鍛冶場の戸を開くと、小鍛冶の親分が、隆々たる背を見せ、槌を振るっていた。
屋外は凍えそうなほど寒い。だが、鍛冶場内は、火炉(ほど)一つの火とは言え、小袖一枚でも過ごせるほど暖かく感じた。
親分は手を休め、振り返った。
「ええとこに来られましたな。話があるんですらあ。他の小鍛冶が逃げ出してからは、一人で三人前の仕事をしとります。銭を三人分貰わにゃあ、割が合わんですけえ」
親分は、凄みのある笑みを浮かべた。鑿を手にぶら下げたまま、ずいっと立ち上がる。幅の広い身体が視界を塞ぎ、山賊から追い剥ぎを迫られているような迫力がある。
人夫確保のため、これまでも日当の額を引き揚げて来た。小鍛冶の日当は、役夫の凡そ倍だ。その額のさらに三倍とは法外な要求だった。
だが、嘉芽市は、「分かった。三人分を払おう」と、あっさりと答えた。
親分は、拒否されると予想していたのだろう。目を白黒させている。
「じゃが、条件がある。鍛冶の仕事を教えよ。日当を増やす一人分は仕事の分。あとの一人分は儂への教授料じゃ」
呆気にとられた顔の親分の前で、嘉芽市は火種の消えた火炉の前に、どっかりと座り込んだ。
「これから、本気で鑿を拵えにゃならん。一人では足りぬじゃろう。じゃから、儂も拵えるのじゃ。さあ、今から掛かるで。何からすりゃあ、ええんなら?」
いつもは、ふてぶてしい顔付きの親分が、真顔になって諭す。
「鍛冶の仕事は直ぐにはモノになりませぬ。初めの一年は、仕事場の掃除や道具の整理整頓をしながら、作業の流れを覚えるのがせいぜい。僕(やつがれ)とて、一人で槌を振るのを許されるまで、五年も掛かりました。今から始めたとしても、覚える前に、とっくに普請は終わってしまいますで」
しかし、嘉芽市は火炉の前を動こうとはしない。
「教えぬのであれば、日当値上げの話はなしじゃ。鍛冶の仕事が簡単に身に付くとは思っておらぬ。じゃが、「やる」と言うからには、絶対にやり遂げてみせる」
「なんと、無茶な話を……」
親分は、口の中で、ぶつぶつ呟いていたが、とうとう根負けしたようだ。
「分かり申した。鍛冶をお教え致します。じゃが、教える以上は、普通の弟子と同様に扱いますぞ。気に入らねば、嘉芽市様と雖も手を出しますけえ。覚悟をなされますよう」
「ようし、分かった。遠慮は無用じゃ。儂を殴ればよい」


第七章 槌を振れ 7 (8月14日の投稿から連載している小説です)

一夜明けた。
嘉芽市は、普請現場にやって来た。無性に現場を訪れたくなったのだ。自身にも、理由はよく分からない。
現場は、がらんと人気がなく、桶や畚(もっこ)が、だらしなく転がっている。
数年前に打ち捨てられた廃墟のような趣だった。
歩く度に、霜柱が潰れ、嵩張った音を立てた。
ただ一箇所、鍛冶場のみが、がんがんと、人の営みを大きく響かせていた。
さらに、嘉芽市は、坑口から漏れている小さな音に気付いた。鍛冶場の騒々しさに邪魔され、聞き取り難いが、岩を削る音のようだった。
「石工が居るはずはないが、何者じゃろうか?」
吸い寄せられるように、隧道の中に足を踏み入れた。すると、視線の先に、蝋燭に照らされた切刃が、点となって、ぼんやり浮かんでいた。
暗闇の中、足を取られぬよう、奥に進んで行く。
鑿が岩を削る音が、だんだんと大きく、はっきりして来た。
連れて、小袖を片脱ぎにして、鑿を振るう大きな男の背が見えて来る。
嘉芽市は驚き、大声で名を叫んだ。
「武三郎様!」
人の頭ほど、丸々と盛り上がった右肩が下ろされ、武三郎が振り返った。
「おお、嘉芽市殿」
親しみの籠もった声に、非礼を尽くした負い目が救われた。ために、以前と変わらぬ物言いで、すんなり口が利けた。
「何をなされておいででございますか?」
「石工が戻るまでの間、拙者の微力でも役に立てば――と思うたまででござる」
絶望的な状況にも拘わらず、武三郎は、普請竣工を諦めていない。現時点での、でき得る仕事を、特別な気負いもなく行っている。
何よりも、武三郎は、必ずや、石工が現場に帰って来る――と、信じていた。
嘉芽市は、腹から胸に向け、熱い塊が昇って来るのを感じた。
「普請の完遂を諦めるな」との、周介の声が脳裏に木霊する。
困難を極めるが、立ち向かおうと思えば、何やら身体の芯から力が漲り、気持ちまでも明るく前向きになって来る。
「出過ぎた行いとは思うたが、拙者が御代官様にお願いして、陣屋の者を動員し、太刀を槌に持ち替える算段を図り申した」
陣屋の役人が石工の仕事を始める、というのである。いかに清助が追い詰められても、武三郎の口添えがなければ、思い付きも実現もしなかったろう。
もっとも、役人が鑿を握ったとて、さほどの役には立たない。あくまで、石工が戻るまでの繋ぎに過ぎない。
しかし、全くの闇の中に、一本の微かな光明が射し込んだのは事実だ。
「ところで、いくら陣屋から石工を動員しても、賄いきれぬものがござる」
武三郎の声は、いつもながら冷静だ。湧き起こる興奮に心を委ねていた嘉芽市は、頭を冷やし、訊ねた。
「それは、鑿でございますか?」
「左様。やはり小鍛冶一人では、長い目で見ると、足らぬ」
「なるほど……。ん、ならば、身共にお任せ下さいませ」
嘉芽市の中で、火花が弾けるように閃くものがあった。


やっぱり①ビートブラックでしょ。第32回ジャパンC

先週、JRA口座が空になり、入金した。春以来の入金だった。これまでよく保ったものだ。
馬券の買い方は、毎週、メインレースと準メインレースの2つを買う。メインの成績はさっぱりなのだが、準メインが、時たま的中するので、細々と資金が繋がって行く感じだ。

本日のジャパンCは①ビートブラックを軸とし、④フェノーメノ⑤マウントアトス⑭ソレミア⑯トーセンジョーダン⑰オルフェーヴルに流す。


第七章 槌を振れ 6 (8月14日の投稿から連載している小説です)

「亀よ」
周介の呼び掛けに、嘉芽市は己を取り戻した。
「なんでございますか?」
周介の呼吸は、幾分か落ち着いていた。
「お前が此度の普請で為そうとしておる本当の目的は、分かっておるぞ」
黙って、周介に頷き返す他はなかった。今となっては、ただの夢となって消えたことだ。
周介が震える手を持ち上げた。嘉芽市は、両手で、周介の手を握る。
「普請の完遂を諦めるな。お前の狙いを、最後まで成し遂げよ」
周介は、意外に強い力で握り返して来た。
「今がまさに、胸突き八丁じゃ。難関を越える手立てを考え出せ。さすれば、お前が進むべき道も、また見えて来ようぞ」
周介は瞼を閉じた。手から、がくっと力が抜ける。
嘉芽市は、周介の容体が急変したのでは? と、慌てた。
だが、周介の顔からは、苦しみが消え、安らかな面持ちとなっていた。息も、心なしか楽になった様子だ。
伝えるべき事項を全て伝え切り、安息して、静かな眠りに入ったようだ。
「進むべき道も、また見えて来ようぞ」
周介の言葉が、いつまでも頭の中に繰り返し響いていた。


第七章 槌を振れ 5 (8月14日の投稿から連載している小説です)

ふと気付くと、周介が眉を寄せ、はらはらと早い呼吸を繰り返している。
「先生っ! 大丈夫でございますか」
今にも息が止まるのでは? 師の顔を改めて正面から見ると、以前には感じなかった老いを見出し、胸を衝かれた。
頬の肉が落ち、頬骨の形が露わになっている。ぽっちゃりと肉を湛えていた身体さえ、枯れ萎れたように思える。
はたと思い当たった。周介は、嘉芽市の算法離脱宣言を忘れてはいない――と。
それどころか、宣言から一年の間、身が痩せ細るほどの辛苦を味わっていたのだ。
最も情熱を持ち、持てる智を注ぎ込んだ愛弟子が、算法との絶縁を表明した。考えてみれば、周介にとって、これほど辛い出来事が他にあろうか!
嘉芽市は、つくづく、己の愚かさを知る。
振り返れば、不遜な態度を繰り返す嘉芽市に、周介は、助太刀を幾度も、してくれたではないか! 身を削り、命を賭し、手を尽くし、渾身の力をもって、嘉芽市を守り続けた。
愛情と期待には報いねばならない。しかし、算法を捨て去る決意もまた固かった。
周介の依頼に応ずるべきか? あくまで算法と決別するのか?
両者の激しい鍔迫り合いが始まった。


第七章 槌を振れ 4 (8月14日の投稿から連載している小説です)

周介は、嘉芽市の言葉を聞くと、満足そうに顎を上下させた。
続けて、絞り出すような声を喉元から発する。
「今、一つ、伝えねばならぬ。亀よ、田熊の算学を、頼む……ぞ」
嘉芽市は、耳を疑った。周介に算学との決別を宣言したはずだ。もう忘れてしまったのか?、周介は、声に熱を加えた。
「田熊の算学が、儂一代で終わってはならぬ。儂の意を継ぎ、算学の道を、さらに究め、また、村の者を教え導け」
算法の求道のみならず、田熊の村民の教化まで代わって行え、と言うのである。
瀕死の師からの言葉だ。しかも命の恩人からの依頼である。一言一言が限りなく重く、心胆に響く。このまま黙って聞き続ければ、否が応でも受諾せねばならなくなる。
そこで、良心に疼痛を感じながらも、辞退の意志を告げた。
「身共には、これ以上、算法の道を進む気持ちもなければ、教授する資格もありませぬ。先生の後釜に座るなど、無理な注文です」
だが、周介は、断固として受け付けなかった。
「亀が継がねば、田熊の算学が衰え行くは必定。お前は、百年に一人の逸材じゃ。儂の目に些かの狂いもない」
周介の熱情に引き込まれ、庵に通い詰めていた当時を想起した。
「斯ほどまでに身共の資質をお認めならば、何故、江戸に上るのをお許しにならなかったのですか?」
「俊才とは言え、未だ、学は八合目。田熊に留まり、儂が得た精髄を掴み取るのが先じゃ。中途半端な習熟では、江戸で会得する学術に染められ、根本を見失う。あくまで、田熊の算学を、より高めるための江戸遊学でなければならぬのだ」
嘉芽市は、ようやく師の本心を知った。周介は、嘉芽市の素養を、とことん愛していた。田熊の算学の後継者として、全てを嘉芽市に委ねる気なのである。
期待度は半端でない。なにせ、命まで捨てて、嘉芽市を守ろうとしたほどだ。


路上で見知らぬ小学生に襲われる

朝の通勤路。道の脇に、小学3、4年生と思しき男子が立っていた。長い柄の捕虫網を手にしている。捕虫網の中には、石と砂が一握りほど入っており、重さで網が垂れ下がっていた。

近くを通りかかった平茂寛に向かって、その子が近寄って来たのだった。視線が合った刹那。
えっ? なんだ?
驚くかな。彼は、突然、網の中の石と土塊を、平茂寛の服にぶちかけたのだ。

だが、相手はしょせん子供だ。見知らぬ大人であっても、時に悪戯をしたくなるのだろう。ここまでは、じゅうぶんに寛容の範囲である。
「僕、だめじゃないか。どうしたんだい」
と、優しくも威厳ある大人の態度を示した。

「これから海に行って、(魚を?)捕るんじゃあーっ」
少年は、ぎゃあぎゃあ叫んだ。
これから海に遊びに行くらしい。嬉しさの余り、興奮が過ぎて、人に土を浴びせる暴挙に及んだってわけか。

そう思った矢先だった。恐るべきことに、今度は、なんの前触れもなく平茂寛の頭を目掛け、捕虫網の竹製の柄を打ち下ろして来た。
呆然とする中で、額に、きつい一撃を喰らってしまった。それで飽き足らないのか、さらに二回三回と攻撃に及ぶ。さすがに、これは走って逃げたが……。
絶好の獲物を失ったガキめは、今度は、近くを通りかかった妙齢の女性に襲いかかった。
遠慮なく捕虫網を振り回し、ぱしぱしと柄の竹で叩く。さらに、女性の頭に捕虫網を被せて捕らえようとするなど、なかなか味な行為にまで及んだ。

まさに、大暴れだった。平茂寛は、全くのやられっぱなし。ガキの魔手から、女性を救おうにも身体が動かない有様だった。
はっきり言って迫力負け……岡山の小学生侮るべからず。