高田在子著『薬種御庭番』の紹介

薬種御庭番

作者の高田在子さんは、私の師匠である若桜木虔先生が主宰する「小説家養成講座」の同門です。このたび、新刊本を出版されたので紹介します。

『薬種御庭番』の中には「黄金の影」と「朝鮮人参を入手せよ」の2つの小説が綴られています。特に「黄金の影」は、第二回朝日時代小説大賞のベスト3に残った作品で、作者の植物・薬草の専門知識を生かし、「薬種御庭番」という、将軍吉宗時代において重要な位置づけにあった役柄を描いた作品です。

魅力的な立場にも拘わらず、「薬種御庭番」を小説の題材とした例は、これまでなかったようです。そこを作者が見事掘り起こし、小説にまで構築された点は、凄いと思います。物語の展開の面白さは当然として、戦闘シーンも迫力満点。ぜひお薦めしたいです。

また、「朝鮮人参を入手せよ」も薬種御庭番について描いた小説で、「黄金の影」で掛かったエンジンが、さらに唸りを上げてヒートアップした作品となっており、とても面白かったです。私はこっちの話のほうが好き!

(475頁 青松書院 2,520円)

 

 

 


第四章 時を積もる 1 (8月14日の投稿から連載している小説です)

はらはらと疎らな小雪が舞っている。十一月も終わりに近付いていた。
嘉芽市は、近長陣屋に呼び出された。
用向きは、聞かずとも分かっている。嘉芽市が提案した隧道の位置変更に対する回答を申し伝えるためだ。
陣屋の座敷に、周介や武三郎の姿はなかった。嘉芽市と、対面に座す清助の二人だけだ。
座敷は、表向にある御役所からは離れているうえに、間に大広間を挟んでいる。執務に携わる役人の話し声や物音からは、隔絶されていた。
清助は、なかなか口を開かない。しかも、表情からは、告知しようとする結論を読み取れなかった。
不気味な静寂が、嘉芽市の不安を煽る。「変更案は、間違いなく認められる!」と信じつつも、心ノ臓の音が、どくんどくんと、鼓膜の奥に響いた。
十呼吸ほどの時を数えた時だ。ようやく清助が眉を歪ませ、物々しい口調で伝えた。
「隧道位置変更の儀、御老中様からお許しが出た。この上は、速やかに作事に懸かるよう命ずる」
嘉芽市にとっては、「いつ果てるのか?」と、呆れるほど長く感じた沈黙の後の伝達だった。
それもそのはずで、清助は一度、案の藩への取り次ぎを拒んだ立場にある。口を開くのが億劫だったのも理解できた。
「有り難く存知まする。この嘉芽市、命に替えましても、御老中様の御厚志にお応えいたしまする」
希望した通りの結果となり、飛び上がりたいような興奮に浸る。
庭から、ききと、鳥の鳴き声が聞こえる。続いて、羽搏(はばた)きが、ばさばさと響いた。
寒々とした空気は、座敷の中にも及んでいた。屋敷から陣屋までの行程で冷え切った手足の指が、びりびりと痛む。
嘉芽市は、「喜んでばかりはいられぬ」と、気を引き締めた。
掘り進めば、思いも寄らない困難な地質や岩質に突き当たるかもしれない。いくら丁寧に地層を調べたと言っても、表面しか見えない――という事実には変わりがない。
加えて、来年正月からの起工を目標にすると、準備に残された期間は一月余りしかなかった。短期間に、測地から設計、普請人夫の招集、資材の準備、さらには、飯場や鍛冶場設営の段取りまでも、こなさねばならない。
測地の準備だけは済ませていたが、他の事項は、全くの手付かずだった。しかも、机上の計算だけでは済まぬ事柄ばかりだ。
「寝る間はないじゃろう」嘉芽市の胸に、熱い闘志と同じ比重で、鋭い切迫感がのし掛かり、ぎしぎしと軋んだ。


第60回神戸新聞杯の結果

⑭ゴールドシップは段違いの強さでしたねえ。この勢いなら菊花賞もかなり行けそうです。

皐月賞と菊花賞を勝った馬では、セイウンスカイが記憶にあります。セイウンスカイの前哨戦は、神戸新聞杯ではなく、古馬も混じった京都大賞典(だったと思う)で、2,400mを逃げ切りました。

軸馬にしていた⑧メイショウカドマツは直線半ばで早くも馬群に呑まれていきました。紐にした馬すら連に絡まない・・・まあ、気持ちよいほどの完敗!

平茂寛の秋シーズンは始まったばかり。これから、じっくりと実が落ちてくる時を待ちますぜえ。


第60回神戸新聞杯で今秋の競馬をスタート

平茂寛の父親は大変なギャンブル好きでした。なにしろ自分が死んだときの戒名を「馬輪院単複連勝居士」(ばりんいん・たんぷくれんしょう・こじ)と、指定していたほどです。

「馬」とは競馬、「輪」とは競輪、「単複連勝」とは、父親が元気な頃の馬券車券の種類で、単勝、複勝、連勝複式の3つを意味します。今は馬券の種類が増えたので、さしずめ、「馬輪院単複ワイド馬連枠連三連複三連単win5居士」とでもなるのでしょうか。

馬の名前にも長いもの、短いものがあります。カタカナで9文字が上限となっているとか。そこで、この秋のスタートは一番長い名前の馬から行ってみようと思います。9文字の馬が6頭いるので、この中で最も前を走る⑧メイショウカドマツを軸に。流すのは②ユウキソルジャー③テイエムハエンカゼ⑪マウントシャスタ⑮ブレイズアトレイルの先行陣へ。

ところで、父親の戒名は結局どうなったかって? そこは想像にお任せします。


第三章 南蛮流町見之術 12 (8月14日の投稿から連載している小説です)

三日後の午九ツ半(午後一時)、嘉芽市は、周介の屋敷の門前に立っていた。
朝からずっと霧雨が降り続いているが、雨具は身に着けていない。
「よしっ、行くぞ」
嘉芽市は耳朶をぎゅっと熱くなるほど摘み、気合いを入れた。
周介は、医業を次男の吾市に譲っている。しかし、かつて周介に救命された者の中には、吾市の見立てや治療では納得しない者がいた。そこで周介は、やむなく、月一回の回診日を決め、周介を神のように崇(あが)める家々を廻っていたのである。
門は開かれていた。嘉芽市は、左右に目を配ってから、さっと屋敷の中に忍び入る。
周介の屋敷は、いつも早い時間から、診察を受ける者や薬種を扱う商人などが足繁く出入りしており、賑やかだ。だが、午を境にして一刻(とき)ほどの間は、潮が引いたように閑散とする。嘉芽市は、他人目に触れぬ時間帯を選んでやって来たつもりだった。
ところが、庵に向かおうとした矢先に、母屋の横から出てきた下女と、ぱったり鉢合わせしてしまった。
「これは嘉芽市様。お久しゅうございます。自景堂様は、ただいま御不在にてございますが」
下女は、いつもと変わらぬ親しみ溢れる笑顔で挨拶した。嘉芽市が、周介との師弟関係を絶った事情など、知るはずもない。
嘉芽市は、「存じておる。儂も先生に同行いたしておるのじゃ。ついては、先生が庵にお忘れになった薬包を、行き先から取りに戻った次第じゃ」と、笑顔で取り繕う。
続いて、真顔を拵え、「ええか! 屋敷の者どもには内緒ぞ。先生がお帰りになった時も、儂が薬を取りに来た――などと、先生に言うてはならんぞ」と、付け加えた。
「はあ……」下女は、要領を得ない顔で、曖昧に頷く。嘉芽市よりも二、三歳は年上のはずだった。
「『医者が薬を忘れた』と知れては、世間の物笑いであろう。じゃから、儂は、先生から、くれぐれも他言せぬよう言い聞かされておる。分かったな」
嘉芽市は、口封じの台詞を下女に注ぎ込む。耳孔に口を寄せ、いかにも、嘉芽市と下女――二人だけの秘密だと匂わせる技巧も忘れなかった。
耳元を息で擽(くすぐ)られた下女は、肩を竦め、むずがる様子を見せた。だが、嘉芽市の口が耳から離れると、頬を赤らめ、黙ってこっくりと頷いた。

学舎に踏み入ると、壁際に山と積んだ書物が、嘉芽市を迎えた。端から順に一冊づつ取り、中を確かめていく。視線を、上下と斜めに素早く動かし、次々と丁を捲った。
明確な検索の基準があるわけではない。たまたま開いた書の内容が、心の琴線に触れて初めて、記憶の底に眠るものの実体が明らかになる――という、気の遠くなるような遣り方で作業を進めねばならなかった。
しかも、時間は二刻(とき)しかない。周介は、夕七ツ半(午後五時)には戻るはずだ。
襖も障子も閉じられている。霧雨がもたらす湿気が、庵の中に、むっと籠もっていた。
腰を下ろす心の余裕はなく、片膝衝いた姿勢で、忙しく手を動かす。ために、嘉芽市の身体は、熱を帯び、全身から汗が噴き出た。袖口で額を拭いながら、作業を続ける。
一刻半(三時間)が経過しても、「これだ!」と、感ずる記述には行き当たらなかった。
「早くせねば、早く……」嘉芽市は焦る。いつ周介が帰ってきてもおかしくない頃となっているのに、まだ半分しか書物に目を通せていない。
作業開始後しばらくは、読み終えた書を丁寧に積み戻していた。が、焦燥するほどに、扱いが乱暴となり、今は、ぽんぽんと放っている。書が畳に落ちる度に埃が舞い、古紙の黴びた匂いが香った。
すると、庵の外から、人の話し声が聞こえてきた。
「うっ、先生がお帰りになられたのか? まずい!」
嘉芽市は、ちょうど手に取っていた、一寸程の厚みの書を開きながら、慌てて立ち上がろうとする。
ところが、嘉芽市は「むん!」と唸るや、中途半端な姿勢のまま、身体の動きをぴったり止めてしまった。
書を握る指先と顎が、かくかくと震える。「ここは一時退散をせねば」などと、口では呟きつつも、五十行ほどの短い記述を、手早く、何度も何度も読み直す。
書名の部分が擦り切れ、読めない。だが、著者の名は、高森惣右衛門と読み取れる。確か蘭学者のはずである。
「これじゃ!」
件の書を、押し込むように懐に仕舞い込んだ。続いて、畳に散乱した書物を拾い上げ、大急ぎで、壁際に山を作り直す
片付けが終わるや否や、土間に飛び降り、庵の周囲の様子を窺った。幸い人影は見えない。周介は、いったん、母屋に入ったのかもしれなかった。
嘉芽市は、屋敷の門を出ると、ぬかるんだ地面に足を滑らせながら、ばたばたと走り出す。周介に姿を見られる失態は、是が非でも避けたかった。


第三章 南蛮流町見之術 11 (8月14日の投稿から連載している小説です)

「拙者は、これにて失礼致す」
嘉芽市は我に返った。武三郎は、いかつい身体を持ち上げ、立ち去ろうとしている。
嘉芽市が、来訪の目的を訊ねたにも拘わらず、武三郎は、答をまだ返していない。
なのに、地平儀についての情報を嘉芽市に伝えると、「もう用事は済んだ」と言わんばかりの態度を示した。
「武三郎様、栄左衛門様のお話を伝えるためだけに、身共(みども)の屋敷に参られたのですか?」
武三郎は、嘉芽市に視線を合わせてきた。
「拙者の話、お役に立ち申したか?」
「あ、はい。実のところ、出口を見失い、ふらふらと彷徨っておりました。が、今のお話を伺い、解決の糸口を見出せそうな気が致しておりまする」
「それは良かった」武三郎は、目をすっと細めた。
嘉芽市は、武三郎に、うまくいなされた気がした。なにしろ、潮時を見極めたかのような訪問だったではないか。だが、嘉芽市は、もはや、しつこく来訪の理由を追及する気はなく、立ち去る武三郎の背を、低頭して見送った。
それどころではなかったのだ。 頭中には、周介の庵の壁に沿って、びっしりと高く積まれた書籍の山が映し出されている。
「あの山の中に、探しているものがある」
一読したのみで、さしたる注意も払わず見逃してしまった何かがあったはずだ。今の嘉芽市にとっては、金銀財宝にも匹敵する記述が、書物の山に眠っている確信があった。
今すぐにでも、周介の庵に素っ飛んで行って、隅々まで探り回りたい――湧き起こる欲求が、嘉芽市を激しく突き動かした。
ところで、庵で書物を検索するには、当然、周介の了解を得なければならない。だが、今や論敵とも言える周介に助けを求めるなど、嘉芽市の自尊心が許さなかった。
――と、なれば、どうするか?
「先生が御不在の時を狙って、庵に忍び入るしかない!」
正常な頭なら、発想こそすれ、実際に、こそ泥同然の行為を実行する気にはならない。
だが、嘉芽市の知識欲は、はち切れんばかりに膨らんでいる。もう少しで、大きな山を越えられそうな気がするのだ。
「あと三日じゃ」ぽつねんと口にする。

三日後に、周介は、月に一度の回診に外出する。


第三章 南蛮流町見之術 10

武三郎は、岩を転がすような声で続けた。
「拙者は、讃岐国で、久米栄左衛門なる御方に会い申した。栄左衛門殿は、大坂で麻田流の天文歴学を学んだ御仁らしい。文化三年に、左中将様(松平頼儀(よりのり))の命を受け、高松の地図を製した――とも、申されておった」
武三郎の意図を量りかねた嘉芽市は、碌に返事もできぬまま、ただ聞くのみだった。
「拙者は栄左衛門殿に招かれ、屋敷を訪ねたのでござるが、そこで、高松の測地に用いた地平儀なるものを実見し申した」
武三郎は、地平儀の説明をどのように嘉芽市にしたらよいか、迷っている様子だった。
が、そこで嘉芽市の脇に置かれた方位盤を見付けると、太い指先で、ぬおっと指し示した。
「地平儀は、ちょうど、嘉芽市殿の横にあるものに似て、円盤を備えたものでござった」
「えっ?」嘉芽市は、座ったままで、びんと身体を跳ね上がらせた。これまでは、さしたる関心を持たずに、武三郎の話を聞いていた。が、「円盤」の一言を聞いて、いっぺんに態度を改める。
今後は、一言も聞き逃すまい――とばかりに、前のめりになり、武三郎に食らい付いて、質問を次々と浴びせた。
「武三郎様、その地平儀なるものは、もしや、方位を測るためのものではありませぬか? 大きさは如何に? どのような形をしていたのか教えて頂けませぬか?」
「嘉芽市殿の申す通りでござる。栄左衛門殿は、地平儀を、方位を積もる測器と申された。円盤の大きさは、円径にして一尺八寸。円盤の下から脚が四本出て、十文字に組んだ木の台に載り、円盤の真ん中には、一尺余りの長さの真鍮棒が立ってござった」
一尺八寸の円径は、嘉芽市の方位盤の倍だ。当然、目盛りも細かく刻まれているだろう。嘉芽市は、ごくりと唾を飲み込むと、武三郎に訊ねた。
「目――目盛りは、どのような刻みでございましたか?」
「随分と細かい目盛りでござった。栄左衛門殿は、円盤の一周を、千八十に刻んだと申された」
三百六十度を千八十で除せば、目盛りの間隔は二十分となる。《大丸》の精度には劣るが、嘉芽市が行おうとしている測地への使用には、なんら問題はなかった。加えて、讃岐の地であれば、往復しても、さほどの時を要さぬではないか!
(これじゃ!)嘉芽市は、指先が震えるほどの興奮を感じていた。ぽっぽと、顔が熱くなってくる。
どきどきと胸を高鳴らせながら、詰めとなる質問を発した。
「身共が、久米栄左衛門様から、その地平儀をお借りできるでございましょうか?」
「無理でござる」
武三郎は、ぴくりとも身体を動かさず、はっきりと断言した。
「な、何故でございますか?」嘉芽市は、掠れ声で問いを重ねる。
「地平儀の噂を聞きつけ、方々から借用の申し入れがござるが、栄左衛門殿は頑として応じてはござらぬ。何分にも精密な測器故、他人に扱わせ、狂いが生じては困る――というのが理由でござる」
嘉芽市は、持ち上げていた尻を、どすんと落とした。首の力もがっくり萎えた。一度は大きな期待を寄せただけに、落胆の度合いは大きかった。高まった動悸が、直ぐには収まらず、ばくばくと虚しい空打ちを繰り返している。
武三郎は、嘉芽市の心境には委細構わず、話を続けている。
「栄左衛門殿は、地平儀が随分と御自慢の様子。地平儀を撫でながら、「この測器で二分まで積もれる」と、申されたのでござる」
嘉芽市は、垂れていた顔をひょこっと上げる。いかに気落ちしているとは言え、黙って聞き逃すには、余りに矛盾する話だった。
「それは、お聞き違いではございましょう。これまでのお話からすれば、地平儀では、二十分までしか積もれぬはずでございまする」
「いや、拙者は、確かに二分と聞き申した」
武三郎の声に、些かの揺るぎもなかった。
――と、なれば、久米栄左衛門なる人物が大法螺吹きなのか、あるいは、単に言い間違えたのか……。
だが、嘉芽市は、何かしら心に引っ掛かるものを感じ、問いを重ねた。
「武三郎様、地平儀を御覧になった時に、何かお気付きになった点はございませぬか?」
「いいや」武三郎は、頭を左右に振り掛けた。
が、そこで「そう言えば……」と呟き、首の動きを途中で止めた。
嘉芽市の身体に、軽い緊張が走った。
「本当に大事な話は、こんな時に飛び出すのじゃ」などと、背中をせっつく声が聞こえる気がする。
武三郎は、宙に視線を泳がしながら、もったりと口を動かした。
「円盤の上に、二寸幅の真鍮板がござった。円盤の真ん中から端までの長さの板でござる。真鍮板の先っぽには、縦一寸横一寸半の四角い覗き穴が穿ってあり、板の上から覗き穴を通して、円盤の目盛りを読むようでござった」
方位盤で言えば、《座板》に相当する部分だった。嘉芽市は、肩に入れかけた力をゆっくり抜く。
「わざわざ真鍮板に穴を穿つとは、凝った造作じゃ」と、半ば、失望の混じった感慨に耽った。
ところが、続く武三郎の一言「真鍮板の先にも、目盛りが打ってござった」を、耳にして、嘉芽市の全身に、びりびりと電撃が走った。
(あ、あれは、何だったか? 先生の庵の何処かで見たような……?)
嘉芽市は、記憶の深淵に手を伸ばし、懸命に探る。忘却してしまった何かを掴み取ろうとした。呼吸が、はあはあと速くなった。


第三章 南蛮流町見之術 9

嘉芽市は、屋敷に戻ると、すぐに手元にある書物を読み漁った。目標とする誤差の値よりも、細かな刻みで方位を知る手立てを、探し求めたのだ。
脇には、荒々しく横に押し退けられた方位盤が、嘉芽市の雑な扱いに抗議するが如く、鈍く黒い光沢を発していた。
方位盤は、享和二年(一八〇二)に、加賀の算学士・石黒藤右衛門が著した『測遠用器の巻』を参考に、嘉芽市と周介で作製したものだった。

 厚み一寸半、縦横一尺一寸の四角い盤上に、方位目盛を刻んだ、円経(直径)九寸の円盤が貼り付けてある。盤の隅には、磁石が埋め込まれていた。
円盤の上には《座板》と呼ばれる幅一寸の真鍮でできた細長い板が、円盤の中心を軸にして、ぐるぐる回るように取り付けてある。
《座板》の長さは、円盤の円径に合わせてあった。《座板》の両端に近い部分は、半分の幅に切り欠いてあり、円盤の円周に沿って付された目盛りを読めるようにしてある。
《座板》の軸からは、七寸の真鍮製の心棒が立ち上がっていた。先っぽに、《天衡の定規》なる長さ一尺五寸、幅半寸の定規が取り付けてある。
定規の両端には、《星針》と呼ばれる目印の針が立ててあった。磁石で、方位盤を子午線に一致させた後、目標と両端の《星針》が一直線に見える位置に定規を回転させる。すると、《座板》も連動して動き、方位を読み取れる仕掛けとなっていた。
なお、定規は、心棒との接合部を中心として、天秤棒のように傾きを自由に変えられる。つまり、高低差のある目標にも照準を合わせられるよう工夫されていた。
扱い易い大きさに加え、機能性にも優れ、これまでの測地では、存分に役立ってきた方位盤だ。しかし今回ばかりは、致命的な目盛りの問題があり、活用の場面がなかった。
「ほう、《大丸(おおまる)》か……」
嘉芽市は、『量地指南後編』なる書物の中に、大磁石盤《大丸》についての記述を見出し、希望の芽を膨らませた。ちなみに『量地指南後編』は、伊勢の測量家・村井昌弘が宝暦四年(一七五四)に著していた。
《大丸》は、円盤の円径を大きくし、千二百まで目盛を刻んでいるという。目盛りの間隔が十八分となり、目標の三十分以下に当て嵌まる。
だが『量地指南後編』には、《大丸》を何処の誰が保有しているのか? ――までは記述していなかった。村井昌弘は六十年前に没しており、本人に尋ねる術もない。
結局、蔵書を虱潰しに当たったものの、他には役立ちそうな情報を見出せなかった。
「どうしたら良いのじゃ?」
両手で頭を抱え、鬢(びん)をがりがりと掻き毟る。
と、その時、下男の呼ぶ声が聞こえた。
「嘉芽市様、お客人が参られておりまするが……」
嘉芽市の頭中に左京の顔が思い浮かぶ。口元が自然に綻ぶのを感じた。
(左京様は、また、儂を口説かれようと、お見えになったのじゃな)
左京の執拗さを不快に感じるどころか、むしろ好人物と再び会話できる楽しみが先に立った。
「座敷にお通しせよ」
ところが、下男に案内され、座敷に入ってきたのは左京ではなかった。首を折った窮屈そうな姿勢で、大男が姿を顕した。
「こ、これは……!」嘉芽市は、意外な人物の登場に、柄にもなく取り乱す。
武三郎は、いつもの煤竹色の小袖を着流していた。ふわりと胡座を組んで、腰を下ろすと、嘉芽市の顔を見ながら、じっと口を結んだままでいる。太い筋を何本も捩り合わせたように見える頑丈そうな首が、目を惹いた。
武三郎が、こちらから問わなければ口を開かない人物だったのを、嘉芽市は思い出した。
「武三郎様、御用の向きを承りたく存じます」
「拙者は、此度、美作国に参るまでは、一月の間、讃岐国に逗留していたのでござる」
武三郎は、嘉芽市の問いとは無関係に思える話を、何の前置きもなく、いきなり語り始めた。


第三章 南蛮流町見之術 8

清助が、急に横から割り込んできた。
「駄目だ! とにかく、隧道の位置は変えられぬ。御家老様の御命に逆らうなど、もっての外だ!」
嘉芽市は、周介の次なる攻撃に備えながら、清助にも対処しなければならなくなった。
そこで、出過ぎた物言い――と、思いつつも、嘉芽市は言い切る。
「御代官様、大丈夫でございます。御老中様は、必ずやお許しをなされまする」
左京から聞いた話に、己の感性を重ねると、結界は、山形山から祠を通り、鼈の口先まで繋がっているはずだった。すなわち、嘉芽市の案でも、隧道は結界を貫く。
清助が、嘉芽市の案を取り上げ、藩元に繋げさえすれば、最終的には幕府で諮られ、結論が出る。「認められるのは、まず間違いない」と、嘉芽市は判断していた。
「何を申すか! 御老中様が、お許しになるわけがないっ!」
清助は、根が真面目なだけに、感情を拗(こじ)らすと、とことん頑固になる。あくまで嘉芽市の提案の取り上げを拒絶するつもりらしい。
嘉芽市は、堪り兼ねて、左京から仕入れた幕府の内情話を伝え、清助を説得する手段も考えた。
が、左京の情報は、物騒この上ない内容だ。公表すれば、左京の命が危険に晒される結果となる。嘉芽市自身にも、間違いなく悪しき余波が押し寄せるだろう。故に、嘉芽市は踏み留まった。
(くそうっ! ならば、どうすればいいのじゃ?)
嘉芽市は、下を向き、くっと唇を噛み締めた。清助の考えを改められないと、嘉芽市の苦労は、まさに徒労と終わる。
嘉芽市が、扱いやすし――と、思い込んでいた清助は、今や、岩のように凝り固まり、思わぬ難物と化していた。
新たな打開策も見い出せないまま、時だけがとくとくと経過していた。
座敷の中に、薄闇が浸透してきていた。武三郎と清助の右半身は、まだ外からの光をうっすら受けていたが、清助の左身と周介の全身は、陰の中に隠れつつある。
清助の冷厳とした声が、座敷と庭に、くわんと響いた。
「これにて、議を打ち切りとする。ついては、御家老様の御命どおりに普請を為すべし。また、嘉芽市に代わり、雅兄が普請の設計並びに指揮を執られるよう。皆の者、下がってよし!」
嘉芽市は、頭を落としたまま、目をきつく瞑り込む。心に、闇の訪れと同調するように、寂とした無念が広がっていった。
「御代官様」不意に、周介のやわっとした声が聞こえた。嘉芽市は、垂れていた顔を、ふらふらっと上げる。
嘉芽市は、全身の脱力を感じながら、周介の口元をぼんやりと見ていた。緊張で乾ききっていた喉の奥に、ひりひりと痺れを感じる。
周介は、清助に意外な進言をした。
「亀の案を、御家老様に諮られてはいかがでございましょう? 亀の申した理由は、それなりに一考を要するものと解釈致します」
嘉芽市は、我が耳を疑った。
清助は、「うむう」と宙を仰ぎ、腕を組んだ。その場にどたんと尻を落とし、考え込み始める。
既に庭は、真っ暗な闇の中に沈んでいた。風はなく、落葉が腐り始めた甘く重い匂いが、座敷の中まで澱んでいる。
ぎゅっぎゅっと、廊下を踏む足音が近付いてきた。小者が、行灯を灯そうと、座敷にやって来たようだ。
清助が、天井に向けていた円い顎の先を定位置に戻した。ふーっと、大きく息を吹き出すと、いかにも不本意な意思を感じさせる渋面を拵え、口を開いた。
「分かり申した。雅兄がそこまで申すのならば……、この図面を土浦に申し送ることにいたそう」
嘉芽市は、喜ぶ気持ちさえ忘れ、戸惑っていた。嘉芽市を憎んでいるはずの周介の口添えが決定打となり、意図どおりに話が進んだ結末となったのだ。
周介の表情は、暗中にあり、もはや読み取れない。嘉芽市は、こなしきれない食物が腹に凭れた時に似た感覚を味わっていた。
(もしや、儂の考えていることを分かっておられるのか?)
嘉芽市は、小さく身動ぎした。胸の内にある構想は、誰にも伝えてはいない。が、周介にはすっかり見抜かれているのでは?
――そんな思いに囚われた。


最近の買い物

銀座の金春通(こんぱるどおり)付近の「平つか」というお店で、きれいなメモ帳を購入しました。452円だったかな。

店主の方(と思います)は、ニコニコと笑顔で対応してくれました。

商売っ気がないというか、ホントにあっさりした方でしたねー。

 

 

こんな入口です(一階)。ビルの合間で目立ちにくい。

嵐山光三郎さんの銀座歩き本で紹介されていたお店でした。