小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 7

陽はすっかり落ちていたが、分厚く空を覆った雲が、何処からの光を反射して、微かな薄明をもたらしていた。
嘉芽市は、分かれ道に出た。右に入る脇道に進めば、サキの家がある村に行き着く。真っ直ぐ進めば、堰のある方角だ。
「か、嘉芽市……」
サキの呼び声に、嘉芽市は立ち止まり、振り返った。サキは、嘉芽市から二十歩以上も離されていた。よたよたと頼りない足取りで、嘉芽市のほうへ歩いてくる。
嘉芽市の横までようやく辿り着いたサキは、はあはあと乱れた呼吸が整いかけると、一唾ごくんと飲み込み、口を開いた。
「サキは、お義父様お義母様のところに行くけえ」
嘉芽市は「おう、そうせえ」と同意した。
分かれ道からサキの家までは、あと三町ある。たいした距離ではないが、無惨なほど、くたくたに草臥れきっているサキを一人で行かせるのは、些か気懸かりだった。
だが、嘉芽市には、一時も無駄にしたくない――との気持ちのほうが強く働いていた。
「儂は堰を見てくるけえ。サキ、気いつけて行けえよ」
嘉芽市は、あっさり言うと、サキから目を離し、足を踏み出した。
「嘉芽市、待って!」
背後から、サキが叫んだ。嘉芽市は上体だけを後ろに回す。
サキは笠を取っていた。髪に付着した水滴が、僅かな光を反射して、薄白い光を放っている。暗くて、表情までは読み取れない。
強めの風が吹いた。雨脚がざわざわと横にさざめき、幹を揺すられた木々からは、ばらばらと音を立てて、水滴が落ちた。
サキは、嘉芽市を呼び止めたくせに、なかなか口を開こうとはしなかった。
嘉芽市の足は、泥濘をぐじぐじと踏みにじっている。身体が勝手に先を急ぎ、落ち着かないのだ。苛つきを交えた声で、サキを促す。
「なんじゃ? 早う言うてみんか」
サキの口から、ふわと息が流れ出る気配がした。次いでサキの声が聞こえる。がっかりした響きが籠もっていた。
「ううん、ええわ。次に会うた時に話すけえ」
嘉芽市は、サキの思わせぶりな物言いが気になった。が、いつまでも同じ場に留まっているわけにはいかない。前に向き直り、堰に向けて進み出す。
「かめ……ち……」
五十歩ほど進んだところで、嘉芽市の背中に向かって、サキがまた何かを言ったようだった。しかし、雨音と泥濘を踏む音に遮られ、何を言ったのかは聞き取れなかった。
嘉芽市は、もう振り返らなかった。駆け足となって堰を目指す。
現在の場所から、五町も進めば、堰を見下ろす岩山に到着できた。
嘉芽市は、「儂の設計に誤りはないはずじゃ! 洪水など、起こるものか」と、頭の中で何度も繰り返す。
嘉芽市は、算法の素晴らしさと、無限とも思える力を強く信じていた。
巷(ちまた)には、算法を、算術の知恵を比べ合う、単なる愉しみの手段と見なしている者も少なくない。
が、嘉芽市には、「算法の持つ力は、そんなもんじゃないで」という確信があった。
師の周介について、伝説めいた奇譚がある。算盤を弾いて、米泥棒が稲を刈って盗む時と場所を言い当てた――というものである。
指定された場所に門弟が行ってみると、確かに、大八車に稲束を積んだ盗賊がおり、今や逃げ去ろうとしていたところだったらしい。
嘉芽市は、逸話を丸ごと信じるほどの軽率者ではない。それでも、算法を極めれば、周囲の者から見れば、千里眼とも思えるような予測は充分にできる――と考えていた。
嘉芽市自身も、これまで算法を、様々な機会に用いていた。多くは、普請の設計であったが、一度たりとも失敗めいた経験をした例(ためし)はなかった。
今回の堰の工事にしても、蛇篭に入れる石の量や、堰の増強に必要だった岩の量は、嘉芽市が測量と計算で弾き出した結果と寸分たりとも違わなかった。普請に必要な日数、人夫においても同様である。
妥協のない測量と精密な計算を駆使して為した堰は、自然の力にも打ち勝つはずである。
今回の大水も、算法の底知れぬ力を嘉芽市の目の前に体現する機会に過ぎない――と、嘉芽市は考えていた。

 


小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 6

進み始めてからずっと川に沿っていた道が、少しずつ川から離れ始めた。
地響きにも似た川の音は徐々に小さくなり、やがて聞こえなくなる。今は、さあさあと、雨の音だけが、辺り一面に響き渡っていた。
いつもは、我が世の春とばかりに鳴き声を連ねる蛙どもも、すっかり鳴りを潜めている。
サキの濁った呼吸の音が、ぜえぜえと嘉芽市の耳道の壁を擦った。
サキは、嘉芽市から遅れ始めていた。今は嘉芽市より十歩ほど後方にいる。言葉を発する機会も、めっきり減っていた。
嘉芽市がサキに歩調を合わせ、行き足を緩めれば、サキを楽にできる。
が、嘉芽市には、進みを遅らせる気は全くなかった。
今朝から嘉芽市の心に居座っている胸のざわめきが、締め付けるような切迫感へと変貌し、嘉芽市を追い立てていた。
堀坂に近付くに連れて、前に前にと嘉芽市を突き動かす衝動は、さらに強さを増している。
「か、嘉芽市、む……向こうから誰か来る」
後から、辛そうなサキの声が小さく聞こえた。嘉芽市は、はっとして、前方を見据える。
すると、二、三本の提灯が、ふらふらと弱々しい光を揺らしながら近付いてきていた。
十名ほどの人影が列を拵えていた。小さな影も混ざっている。女子供が列に加わっているようだ。
足下から、ぐちゃぐちゃと泥濘んだ音を鳴らし、一団は嘉芽市の近くまで来て止まった。見れば、皆、沢山の荷物を背負い、両手いっぱいに抱えている。
嘉芽市の口中を、苦々しい汁気が、じゅっと満たした。見たくない光景を見せられた――という感覚だ。
提灯を持ち、列の先頭を歩いていた四十がらみの男の顔には、見覚えがあった。堰の普請の際に、他の村人と一緒に、現場で働いていた男だ。
「あんたら、もう、奥へは行かんほうがええぞ」
男は、野太い声で嘉芽市に伝えた。暗さ故に、相手が嘉芽市とは気が付いていない様子だ。
「儂らあ、堀坂から逃げてきたんじゃあ。こんだけ雨が降りゃあ、また堰がめげ(壊れ)るかもしれん」
嘉芽市の胸の下方から、熱を帯びた、こなれの悪い塊が、くわっと持ち上がってきた。
(何故、儂の設計を疑うのじゃ? )
男が、堰の設計者が嘉芽市である事実を知らぬはずがない。なのに、男は、堰が決壊するかもしれない――と、考えているのだ。
サキと同様に、知識不足が原因――と、解釈すれば、腹を立てる必要はなかった。
が、サキが単に不安を口にした時とは状況が違う。男に率いられた者どもは、実際に危険回避の行動にまで出ているのだ。
さらに、不安げにおどおどと嘉芽市を見ている女子供の顔や怯えた動作が、嘉芽市の神経をざりざりと逆撫でする。
堰への不審は、嘉芽市の存在そのものを認めない意思と同義にすら思えた。
嘉芽市は、むっとする感情に支配され、前に一歩、じりっと踏み出す。男どもを許せなかった。
「身共は、田熊の中村嘉芽市じゃ」胸を反り返らせ、怒気を含めた声で名乗る。
足の下でにゅるりとした感触がして、青臭い匂いがつんと立ち上った。蕺(どくだみ)を踏みつけたようだ。
男は、嘉芽市の名を聞くと、「ああっ」と、小さな声を漏らした。が、同時に、嘉芽市の喧嘩腰の口調に色めき、目を光らせてもいる。
サキが、嘉芽市と男の間に細い身体を滑り込ませ、口を挟んだ。
「おじさん、サキです。お義父様お義母様は、一緒ではないのですか?」
男は、力んで持ち上げていた肩を下ろすと、親しげな声を出した。
「おお、サキか。面目ないが、我が屋のことで精一杯でな。他の家のこたあ、分からんのじゃ。逃げずにおる者も何人かいるらしいで。もしかしたら、宗市っつあんらは、まだ家におるかもしれん」
サキが割り込んだお陰で、嘉芽市は幾分かの冷静さを取り戻せた。すると、怒りよりも切迫感が優先した。
サキは、まだ男に、養親の安否について聞きたい様子だった。だが、嘉芽市は、男とサキの会話を遮り、先を急ぐよう促した。
「もうええ、サキ、行くぞ」
嘉芽市を追い立てているものの正体が露わになってきていた。が、嘉芽市は、断じて、正体なるものを受け容れるわけにはいかなかった。


小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 5

嘉芽市とサキが進み始めてから、半刻(とき)余りが経過していた。堀坂までは、あと半里を残している。
激しい土砂降りは収まったものの、細かな雨がびっしりとした密度で落ちており、雨の量には、さほど変化はないように思えた。
嘉芽市とサキは、並んで歩いていた。
サキは、嘉芽市よりも歩幅が狭い。ために、少しずつ遅れていく。時折はっと思い出したように、ぱたぱたと早足で遅れを取り戻した。
「ねえねえ、嘉芽市。川の幅や深さは、どんな遣り方で積もったのじゃ?」
サキが、息を弾ませながら、嘉芽市に問う。ちょうど周介から規距術の教授を受け始めたところなので、関心があるのだろう。
じっとりと手の甲に貼り付く雨滴を拭いながら、嘉芽市は答えた。
「そうじゃな、まずは川幅じゃが、これには鎖距(くさりかね)と呼ばれておる道具を使ったのじゃ」
「聞き慣れぬ名の道具じゃなあ。どんな形をしておるん?」
サキの無邪気な問い方に、嘉芽市は、微笑みを禁じ得なかった。

「鎖距はな、二尺の鎖の片方の端に、三寸の物差しを繋いだもんじゃ。まず、川の岸に立ち、鎖距の物差しを目の下に当てる。それから、二尺の鎖をいっぱいに伸ばし、鎖のもう一方の端にある輪に、分廻(ぶんまわ)し(=コンパス)の片足を入れるんじゃ」
嘉芽市は、分かり易いように、身振り手振りを加えて説明する。
「川の向こう岸に、種竿(たねざお)という三間巾の印を付けた竿を立てておくんじゃ。拡げた分廻しの足の間で種竿を覗き込み、三間の印を分廻しの先で挟む。次に、物差しで分廻しの開きを読み取るんじゃ」
「ふうん。それで、川幅が分かるんか?」
我が意を得たり――と、ばかりに嘉芽市は応える。
「サキ、先生から先日拝聴した同距(どうのり)(相似)の話を覚えておるか? 鎖の長さと分廻しの開きでできる三斜(三角形)と、川幅と種竿の三間が作る三斜は同矩なのじゃ。されば、鎖の長さが二尺、種竿は三間、分廻しの開きも分かっておるから、あとは同規(どうき)(比例式)で川幅が積もれる」
三角形の相似関係を用いた測量手法は、現代でも、スタジア測量と呼ばれる測量法で用いられている。
サキは、しばらく考え込んでいた。が、急に、「きゃっ」と嬉しそうな声を上げた。
「あっ、そうか! 嘉芽市、わかった! 思い出したぞ」
今にも飛び上がりそうなサキの反応に、嘉芽市の胸も、ほかほかと暖かくなる。
だが、嘉芽市は解説しながら、サキの呼吸に喘ぎが混じってきた気配に気付いていた。
草履にずっぷりと泥が絡めば、嘉芽市でも、歩みはなかなか捗らない。身体の小さなサキではなおさらで、水を吸った蓑の重さも加わり、嘉芽市以上に苦しいはずだった。
「サキ?」嘉芽市は、苦しげな息遣いをしているサキを気遣い、小さく声を掛ける。
「大丈夫じゃ」
サキは、嘉芽市に心配を掛けまいとしているのか、明るい口調で返事をした。


小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 4

雨の勢いが、急に弱まった。代わりに、噎せた空気が嘉芽市を押し潰すように取り囲む。
嘉芽市は、息苦しさから逃れるため、一息「はあ」と吐いてから、強い語調でサキを諫めた。
「大丈夫じゃ! あの堰が、壊れるはずはない。いかなる大水にも耐えうるように、儂が設計し直し、この冬に、村人総出で普請したばかりじゃ」
「知ってる。でも……」サキは不安が拭いきれぬらしい。三日月型の目の中で、瞳を細かく震わせている。
サキは、昨年の夏から周介の庵で算法を学び始めたばかりだった。サキの不安は知識不足が故に生じている――と、嘉芽市は判断し、堰の構造についての説明を試みた。
「此度の河普請では、川除(かわよ)けの技を用いたのじゃ。これ即ち、蛇篭(じゃかご)(竹で編んだ大きな円筒の筒籠の中に石を詰め込んだもの)を、堰の手前にある取水口の上流から、堰の中央に向けて斜めに並べた。さすれば、川の流れは蛇篭に導かれ、向こう岸寄りの堰に向かう」
堰は、川の幅いっぱいに作られている。嘉芽市は、堰の機能を、木や塵芥の蓄積場所と洗堰(あらいぜき)(余分な水を越流させるための堰)に、二分したのだ。


増水時に上流から運び込まれた木や塵芥は、蛇篭で形成された流れに乗り、いったん、澱みとなる対岸側の堰に集められる。
「向こう岸側に木や塵芥を残した川水が、蛇篭の間を抜けて取水側の洗堰に戻り、下流へと流れ出る。これならば、堰に流木が押し寄せても、過分に水は溜まらぬ」

 

「でも、嘉芽市。仮に、洗堰の幅が元の堰の半分になれば、水嵩は倍となるで。これでは、かえって水が溢れ易うなってしまうのでは?」
サキの質問は、初学者とは思えぬほど、当を得た内容だった。
嘉芽市は、サキの疑念を払うべく、より詳しく設計の過程について説き聞かせる。
「サキ、よう聞け。儂は堰の設計に懸かる前に、川筋に住む古老を訪ね、今までで最も水嵩が上がった時の様子を聞いて回ったのじゃ。加えて、川幅を積もった。最高の水嵩に川幅を乗ずれば、これまでの最大の水の坪数(断面積)が算出できる。次いで、堰のある場所の岸から川底までの深さを積もった。先程に求めた水の坪数を深さで除せば、必要な洗堰の幅が分かる。あとは、必要な幅を取るように蛇篭を配置するだけじゃ」
「そうかあ。河の流れを見ているうちに、つい怖(こお)うなってしもうたんじゃ……」
サキは、甘ったるい声で返事をした。嘉芽市の弁舌にうっとりと酔っている様子だ。
目を艶っぽく潤ませ、嘉芽市の顔を頼もしそうに見詰めている。
「それだけではないぞ。堰の根置(ねおき)(堰の底の幅)を拡げて法(のり)(堰の側面の勾配)を緩くし、より頑丈にしたのじゃ」
嘉芽市が、堰の強化の話を付け加えた理由は、サキの顔を見て調子に乗ったためではなかった。
落ち度など何一つない事実を、サキとの会話で再度確認した――斯様に思った途端、 理由の判然としない、ぞわぞわとした胸騒ぎが突き上げてきたからだ。
嘉芽市は、口を動かしている途中から、サキではなく、あたかも己自身を一生懸命に説き伏そうとしている感覚に陥っていた。
再び、雨脚が強まった。しばしの休息を補うかのように、凄まじい勢いで降り注ぎ始める。
嘉芽市の足は、はたはたと堀坂に向かって歩み始めていた。
「ねえっ、嘉芽市。何処に行くの?」背後からサキの声が微かに聞こえる。
嘉芽市は振り返り、慌てて言葉を取り繕いながら、大声でサキに怒鳴った。
「掘坂じゃ! 心配は要らぬが、とりあえず様子を見てくるけえ。サキは儂の屋敷で待っておれい」
だが、サキには、嘉芽市の指示に温和しく従う気が、まるでないようだ。
「いやじゃ! 一緒に行く! お義父様お義母様が心配じゃけえ。それに嘉芽市に、もしものことがあったら……」
サキは、ずっしりと重くなったであろう蓑を引き摺りながら、ぴょんぴょんと撥ねるような足取りで、嘉芽市の後を追ってくる。
「しゃあないのう」
嘉芽市は、仕方なくサキの同行を追認した。
暮れ六ツを迎えていた。なだらかな山々が、薄暮と降り落ちる雨の中に霞み、ぼんやりとした影となって、薄鼠(うすねず)の空に浮かんでいた。


小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 3

一刻(とき)半の後。
嘉芽市とサキは、加茂川の河岸に立ち、白濁した怒濤が切れ目なく寄せる川面を見詰めていた。
加茂川は津山川(後世の吉井川)の支流で、田熊の西側を流れており、一里ほど下流で津山川に合流する。
加茂川の水位は、昨日に比べ、格段に上がっていた。足下に水面が迫るまで、幾ばくも間がないように思える。
濁流の轟音に混じり、川の底から、ごつんごつんと、不気味な音が響いていた。
「ねえ、嘉芽市」
サキは、蓑を巻いた身体を嘉芽市にぐっと押しつけ、嘉芽市の笠の中に首を突っ込んできた。
ぷうんと甘い香りが漂い、嘉芽市の鼻孔を擽る。嘉芽市は、先程までの熱い逢瀬が身体の芯に蘇り、かっと腹の底に窮屈な感触を覚えた。
サキは、嘉芽市よりも一回り小さな笠を首の後ろに回すと、嘉芽市の耳元に口を寄せ、さくさくと囁く。
「あのごつごつした音は、なあに?」
嘉芽市の背丈は五尺余り。サキは五尺に少し足らない。サキが背伸びすれば、ちょうど嘉芽市の耳の高さにサキの口が来る。
「あの音はな、川底の大岩が、ぶつかり合いながら転がっていく音じゃ。 激しい川の流れに、突き動かされているのじゃ」
嘉芽市はサキの問いに答えながら、右手の指先で笠の先をくいっと持ち上げ、硬質な音の源を目で確かめようとした。
が、分厚く暗い水が、嘉芽市を中に誘い込もうとでもするかのように、淫蕩にうねりくねっている様子が見えただけだった。
依然、雨は勢いを緩めていない。
びしびしと礫を打ち当てるような雨の勢いに、廻し合羽に含ませた柿渋は、ろくに役にも立たっていなかった。滴るほど水分を含んだ厚手の布が、両肩にじっとりと重みを課している。
嘉芽市は、心中で、厳しく己を責め立てていた。
周介の庵を出てから、すさみ、荒ぶった気持ちをサキの身体にぶつけ、癒しを求めた。
が、己を放ち、高ぶっていた熱が冷めると、今度は、猛烈な悔恨の念が胸を焼き焦がし始めた。
算法のみならず人生の師としても尊敬して止まない周介に、侮蔑とも取られかねない言葉を放ったうえ、飛び出してしまった。
周介の怒りは、想像して余りある。破門されても文句は言えない。
師を失うばかりではない。周介の庵で、同朋と楽しみ学び合う場こそは、嘉芽市にとって、何物にも代え難い機会ではなかったか?
さらに、江戸に出て学ぶ――という発想も、実は、「作洲に算仙あり」として広く名を知られた周介の後ろ盾抜きには実現が難しい事実にも、改めて気づく。
すなわち、周介から破門されれば、積年の夢を達成する道も自ずと閉ざされる結果となるのだ。
嘉芽市は、今の自分にとって最も大切だったもの全てを一挙に失った気がして、途方もなく寂しい気持ちに囚われた。
(なんで、あのような詰まらぬことを放言してしまったのか?)
頭を冷やせば冷やすほど、自らの言動と行動の愚かさが嘉芽市の身に沁みてくる。
傾けた笠の後ろから、ぼたぼたと水滴が垂れ、嘉芽市の首筋を伝わった。滴は背中に流れ込み、左右の肩の間をひやっと竦ませた。
嘉芽市は、はっとして、意識を身体の内面から外界へと戻す。
サキが嘉芽市から身体を少し離していた。やんわりとした山型の眉をくねらせ、形の良い唇を尖らすと、不安げな声を発する。
「お義父様、お義母様は、大丈夫じゃろうか? 早う、帰らなくては」
サキは一昨年の夏に、嘉芽市の叔父である中村宗市の養女となっていた。宗市の屋敷は田熊から一里半北の堀坂(ほりさか)にある。
サキの懸念には根拠があった。加茂川が氾濫するときの被害は、堀坂に集中していたからだ。
水害の原因は、加茂川の河水を堀坂の田に導くために積まれた堰にあった。
川が増水すると、上流から運ばれた木々や塵芥(ごみ)が堰に蓄積し、必要以上に川を堰き止める結果となる。
最後には堰ごと崩れ、溜まりに溜まった水が、激流と化し、一気に堀坂の田畑や住居を襲うのだ。
が、他に有力な水源を持たない堀坂では、加茂川の水は生命線だった。堰の存在抜きには、堀坂の稲作は成り立たない事情があった。


小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 2

雷が一閃すると、雨の勢いが一際増した。滝の如く雨滴が落ち始める。
周介は剃髪した頭をてらりと光らせ、嘉芽市を一喝した。びしっと通った鼻筋から左右に突き出た小鼻を、大きく膨らましている。
「この愚か者めが! 早過ぎる――と、申したであろうが! 亀! お前はまだ若い。この地で学ぶことも、まだまだ数多くあるのじゃ。もっと精励してから江戸に上っても、何ら遅うはない」
嘉芽市は、上下の顎を左右に捻り擦り、歯を軋ませた。周介に対し、猛烈な反感を覚えたのだ。これまでに感じた記憶のない、激しい感情の高ぶりだった。
今朝から、理由の定かでない蟠(わだかま)りが、もやもやと心の底で滞っていた。気持ちがざわめき、ちょっとした刺激にすら、心が過剰に反応した。

「先生は、身共の才を妬んでおられるのじゃ……」などという思いが、嘉芽市に、打ち消しても打ち消しても、沸き起こって来る。

師と一番弟子の遣り取りを、嘉芽市とともに算法を学ぶ朋友たちが、顔を強ばらせて見ていた。幼馴染みで一歳年上のサキも、引き攣(つ)った表情を見せている。
周介は、医師業の傍ら、向学の志ある地域の若者を集めて算法を教えていた。美作国勝北郡広野庄田熊(たのくま)にある屋敷の中に庵を造り、生活の場と教育の場を兼用している。
だが、いつものほのぼのとした学舎(まなびや)の雰囲気が、今は、がちがちに凍り付いていた。庵の内側を取り巻く質素な土壁と無地の襖が、冷え冷えとした空気を余計に際立たせている。
強い風が唸り声を上げ、雨脚をばらばらと乱した。
嘉芽市は、ついに決定的な言葉を吐いてしまう。
「いえっ! もう、田熊には、身共が解けぬ問題など、ございませぬっ!」
「師を軽んじておる」と思われても致し方ない発言だ。「いけない、いけない」と思いつつも、嘉芽市は己の感情を抑制できなかった。
言い終わるや否や、ぐいっと立ち上がり、土間に飛び降りる。嘉芽市は、もはや庵の中に居場所を失った気がしていた。
このまま飛び出そうと、縞地の廻し合羽と笠を、がさがさと身に纏った。じっとりと湿った感触が、後悔の念と、己自身への不快感を募らせる。
いよいよ飛び出そうとした時、滑らかな感触が、するりと嘉芽市の右腕を包み込んだ。 嘉芽市は、硬直した筋がふっと緩むのを感じた。横を向くと、サキが嘉芽市の二の腕を両腕に抱きかかえて、俯いている。嘉芽市を追い掛けてきたに違いない。
嘉芽市は黙ったまま、サキの腕を引っ張るようにして、周介の屋敷の門を出た。


小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 1

文政四年(一八二一)の春。
重々しい雨音の響きが切れ目なく続いている。三日前から激しく降り始めた雨は、未だに衰えを見せていない。
叩き付けるように落ちる雨粒は、今にも庵の屋根を突き通しそうだ。
実際、茅葺屋根の内側には三箇所で染みが広がり、一部の染みからは、ぽたんぽたんと滴が垂れ始めている。
十六歳になる中村嘉芽市(かめいち)は、雨漏りで色が変わった床から、算法の師・中村周介へと視線を移した。大きくて真っ黒な瞳をぐりぐりと見開き、雨音に負けない声を張り上げる。
「先生! 何故、身共(みども)の考えを分かっていただけないのですか?」
瞳の上に、尻上がりの太い眉が、ぐいっとばかりに構えている。顔の真ん中に居座る団子鼻の下には、鮮やかな紅の唇で「へ」の字をきりりと結んだ口がある。
好意的に表現すれば、意志が強そうな顔――とも言えるが、実のところ、「きかん坊」と表現するほうが適当な面付きだ。
「亀よ。まだ早い。ことを起こすには、然るべき時期と言うものがあるのじゃ」
周介は、今日も嘉芽市の願いをあっさり拒絶した。が、嘉芽市は簡単には引き下がらない。
「この嘉芽市、先生から算術、規距術(きくじゅつ)(測量理論)、町見術(ちょうけんじゅつ)(測量実務)、暦術のあらかたを学び、昨年には奥義も伝授賜りました。が、身共は、もっと広く深く算法を学びたいのでございます。江戸には、天下に名を成した算法家が数多(あまた)おります。流派も、関流だけでなく、最上流、宅間流、中西流など、十指に余る諸流が互いに技と智を競っておりまする。算法を極めるため、是非とも江戸に出たいのでございます」
師に対しての物言いとしては、些か小生意気に聞こえる。それもそのはず――嘉芽市は六歳にして算術の難題を解いた異才で、「天童」と呼ばれた男だった。
十三歳の時から、大叔父に当たる周介の許で算法を学び、僅か三年で「師に互する実力を身に付けた」との評価を周囲から得ていた。


小説「隧道を穿(うが)て」 

以前にも紹介した経緯がありますが、津山市の東部にある田熊(たのくま)地域には、江戸後期に、和算の神様(算仙)と呼ばれた人物・中村周介がいました。さらに、その周介と弟子の中村嘉芽市(かめいち)が協力して行った土木工事は、地域を見事に豊穣の地へと変貌させました。

以上は事実です。これに政治のきな臭さや、伝奇っぽい味を加えた物語(総合的にはフィクションになります)を、お伝えします。

ただ、かなり長い物語です。また、私が測量士の資格者(平成5年ごろの合格証書が見付からないので、やや自信が揺らいでますが、合格したはず)である知識を生かしての物語なので、一部マニアックな部分もあります。

ま、とにかく、しばらく連載してみて、皆様の反応で、今後を考えたいと思います。

それでは明日から。

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牛窓パンプキン

「牛窓パンプキンは、岡山県瀬戸内市牛窓の野菜農家、川野さん(以前に紹介をしました)と森部さんのお二人だけが栽培したカボチャを材料に使って作っているパイです。

 

今日、初めて食べてみました。

包装(左下)はこんな感じです。中はどうかな。楽しみっ!

 

 

 

封を切ったところ。ふんわりしたパイ生地です。素手で触ると壊れそうな繊細な表面・・・。

でも、心を鬼にして、食べなければ。

下の写真は、半分食べた断面。ピンぼけ気味ですね。左下に緑で見えているのが、皮付きのかぼちゃ。

餡らしい甘みの中に、カボチャの風味がほどよく感じられます。まさに栽培されているお二人の、おおらかな人柄が、そのまま味になったよう。

ついもう一つ食べたくなります。好みもありますが、コーヒーにとても合いそう。