第二章 藩命下る6

二日後の午の刻、嘉芽市は、武三郎とともに、隧道普請の予定地に向かった。
まずは、掘削箇所周辺の地形や地質、水の流れを調査しなければならない。工事の難易度、人夫の動員数、竣工までに必要な日数を割り出すためには、必須の事項である。
さらに、普請に必要となる資材の搬出入を行う作業道の確保、あるいは掘り出した岩や土の捨て場所を何処にするか――についても、考慮しておく必要があった。
堀坂に向かう嘉芽市の両足は、何重にも鉛を括り付けたかのように重い。大股の武三郎に、後ろから何度も尻を突かれそうになった。
未の刻前には、堀坂に到着した。嘉芽市は、胸に、息が詰まりそうな圧迫感を感じながら、村を視界に受け容れる。
堀坂の村は、荒涼とした濁水の湖から、洪水以前と変わらぬ姿に体裁を取り戻しつつあった。田圃は、整然とした刈り跡の株を晒している。寄せ集めの木々で作られた、家らしき造作物も、ちゃんとあった。
嘉芽市は、少し、救われた気持ちとなる。が、洪水の時を数倍も上回る心の痛みも味わっていた。村人の逞しさを突きつけられるほどに、己の無力をとことん思い知る気がしたのだ。
「サキ……」嘉芽市は、サキの体臭が鼻の奥に香った気がして、立ち止まった。
嘉芽市には分かっていた。サキが戻って来たわけではないのだ。強気に振る舞っていても、足下が崩れそうになれば、サキに縋る――未だに抜けきらぬ心の芯の弱さに、嘉芽市は唾を吐きかけたい気になる。
薄(すすき)が肌色の尾花を立ち上げていた。まだ緑を残す葉柄とともに、不規則に吹き様を変える風を受け、ざわっざわっと波打っている。
嘉芽市は、堀坂の村を抜け、隧道掘削予定地の近くまで来た。
平地と山形山の裾野との境目付近に立ち、僅かに覗いた地層の断面に目を遣る。すると、米粒のような細かなささくれが、表層に浮き出していた。
手を伸ばし、ささくれを指先で擦ると、ばらばらと、さほどの抵抗もなく崩れ落ちた。
現在でもトンネルを掘削する前には、嘉芽市らと同様に、地表地質調査を実施し、地表の状況、岩質、地質構造等を把握する。
ただ、地表地質調査だけでなく、ボーリング調査、弾性波調査、電気探査等を併せて実施し、表面からは見えない部分の地質や岩盤、地下水の状況等についても調査する。
山の中心部を調べる有効な手段がなかった嘉芽市の時代には、言うまでもなく、地表を見る他はなかった。
隧道に沿って山の上を歩いて、表土の状況や岩の露頭を見る。あるいは、沢に下りて、沢沿いに露出している岩盤から地質を判断した。
「武三郎様、いかにも脆く感じます。穴を穿つのは容易い――と、思いますが?」
武三郎は、ずいぶんと無口な男のようだった。この日も、嘉芽市と落ち合ってから、一刻を経過しているのに、一言も声を発していない。
嘉芽市は、武三郎の存在が、だんだんと気味悪く感じ始めた理由もあって、あえて、声を掛け、質問をぶつけてみた。
がらがらと、太い声が頭上から降ってきた。
「嘉芽市殿、山に穴を穿つ時に、第一に考えるべきは、掘り易さではござらぬ」
「えっ? それでは、いったい何が大事だと?」
「俗に「よい山」とは空普請(からふしん)のできる山――すなわち、掘りっぱなしで、格別、穴を支え保つための工作が不要な場所を申す。逆に「悪い山」とは、軟弱な土や脆い岩でできた山を指すのでござる」
嘉芽市は、極度の無口と思っていた武三郎が、意外にすらすらと答を返してきた事実に、へへえ――と驚く。
「つまり、掘り易さよりも、崩れ難さのほうが大事なのですね」
武三郎は、小さな目を光らせ、しゃくれ顎を大きく上下させた。
「さよう。崩れやすい穴を支えながらの作事は、思いの外、人も時も材も要するものでござる。さらに、いつ崩れるか分からぬのでは、人夫どもの仕事も及び腰となり申す。ついには、良い人夫は去り、給金のみが目当ての人夫ばかりとなるのでござる」
嘉芽市は、振距師の末裔らしい知識に、「なるほど」と、頷いた。
沈みきった嘉芽市の心の中に、新たな智を得る楽しさが、ぽっと温もりを灯らせた。
が、嘉芽市は、胸が時めくような喜びが沸き起こってくるのを、必死に否定しようとする。


第二章 藩命下る5

「亀、こちらは、井汲(いくみ)武三郎様じゃ。土浦から参られた。普請に御力を貸して下さる」
嘉芽市の不安を推し量ったように、周介が大男の紹介を始めた。
嘉芽市は、周介と清助ばかりに気を取られ、圧倒的に空間を占めている巨躯の男の存在を忘れていた。
周介は、ごほんと小さく咳払いしてから、話を続ける。
「儂は、木村軍太忠雄先生より南蛮流町見之術を学び、天明四年甲辰年に相伝を受け、印家を授かった。亀に教えた町見術は、軍太先生から学んだ南蛮流じゃ。じゃが、南蛮流の他にも、古くから伝わる金山を掘削する術があってな。武三郎様は、その技を引き継いだ御方なのじゃ」
周介の横から、清助がずいっと膝を乗り出し、補足の説明を始めた。
「御殿様(土屋彦直(よしなお))の御先代をずっと遡れば、法性院様(武田信玄)、景徳院様(武田勝頼)の武田家二代に仕えた忠臣の右衛門尉様(土屋昌恒(まさつね))に行き着く。亀も存じておろう?」
「はい。天目山での片手千人切りで、御名を戦国の世に轟かせた豪傑とお聞きしております」
「ところで、武田家には、甲州流なる優れた掘削術を身に付けた金山衆がおった。金山衆が黒川金山から掘り出す金こそが、武田家の豊富な軍資金の元だったのだ――そこまで話せば、亀にも察しがつこう」
「はっ。右衛門尉様の御嫡男・円覚寺様(土屋忠直(ただなお))が、権現様に召し抱えられた時に、甲州流の金山衆を何人か引き連れて参られたのではないか――と」
「その通りだ。武三郎は、金山衆の中にいた振距師(ふりがねし)の系統よ」
振距師とは、金山や銀山の坑内で測量をする技術者を意味した。
「井汲武三郎と申す」
武三郎は、雷のような声で、がらがらと嘉芽市に短く挨拶した。嘉芽市は、あたふたと頭を下げる。
唇が分厚く、口も大きい。長く、厳つい顔の下には、しゃくれた顎がぐっと前に突きだしている。目はとろんと小さい。表情が掴みにくい顔だ。
立ち上がれば、六尺はあろうか? 小紋模様に染めた煤竹色(すすたけいろ)の小袖の下に、鋼のような筋肉が息づいていた。
嘉芽市は、巨大な仁王像を思わせる武三郎の風貌に、取り付き難さを感じた。
「亀よ。隧道普請で分からぬところは、武三郎様にいろいろと聞くがよい」
周介は、嘉芽市の本音を無視して、どんどん話を進めて行こうとする。
だが、嘉芽市は、隧道普請の後まで、だらだらと算法との関わりを続けるのは、真っ平御免だった。
(よしっ。今を置いて他にはないっ!)
嘉芽市は、すっくと居住まいを正す。心ノ臓が、再び、とくとくと鼓動を早めた。
まずは改めて、正式に普請の受諾を宣言する。
「隧道普請の御命、謹んでお受け致します」
周介の顔に、ほっと安堵の表情が浮かんだ。
「ただし……」嘉芽市は、語調を硬くし、周介の顔をきっと見据える。
「此度の普請を終えた暁には、この嘉芽市、算学の道から決別致したく、失礼を重々存じ上げながら、先生に申し上げまする」
師匠に正面を切っての縁切りの直言――さすがに、柔和に見えていた周介の顔面にも変化が現れた。下唇がにゅっと前に出、目には厳しい光が宿った。すうすうと、荒くなった鼻息からは、嘉芽市に対する激しい憤懣が感じられた。
嘉芽市は、本来ならば、周介にとことん失礼を詫び、謝罪して許しを請うべきだった。
ところが、(何を、謝る必要などあるものかっ!)――嘉芽市は、素直な行動を拒んだ。周介の表情の硬化が、隧道普請の強引な押しつけに対する、嘉芽市の怒りを呼び起こしたからだ。
清助は、師弟間に流れた冷たい空気を察知したらしく、一瞬ちらりと戸惑いを見せた。
が、しょせんは、清助は周介の味方である。直ぐに、無礼この上ない言動への批判を籠め、嘉芽市をじっと睨んできた。
武三郎は、黙って座しているのみで、相変わらず、何を考えているのか、全く分からない。
外気の熱が、開け放たれた間口から、じわじわと部屋に流れ込んでいる。しかし、嘉芽市は、冷え冷えとした疎外感を感じていた。もっとも、算法を捨て去る気持ちには、些かの変化もなかった。


第二章 藩命下る4

清助が、嘉芽市をさしおいて、周介に話しかけている。
「隧道の普請は、来年の末までには終えよ――との命が下っておる」
「御代官様、それはまた、お急ぎでございますなあ。差し支えがなければ、拙者にわけを教えてもらえませぬか?」
「いや、儂には、詳細が知らされておらぬ。ただ、普請に要する財貨には糸目をつけぬ――との御家老様の御方針だ。それだけ、この普請を重く見られておるのであろう」
清助の返答は、些か歯切れの悪いものだった。周介が、早口で問いを重ねる。
「お待ち下さい。文化八年(一八一一)の大火が厄となり、土浦の財政は窮乏しておると聞いております。一昨年の旱魃で、いよいよもって困窮の極みにある――とも。それなのに、飛び領地に隧道を穿つ普請に、いくらでも金を出すとは、何とも解せぬ話……」
嘉芽市は、顔をゆっくり持ち上げる。徐々に話の内容に興味を覚え始めていた。
清助は、短い眉を、くっと寄せる。
「いや、正直なところ、儂も雅兄と同じ考えだ。だが、勘定方に訊ねてみても、納得できるような回答が、一向に返って参らぬのだ」
何を質問しても、清助からは暖簾に腕押しの答ばかりだ。周介は、呆れ返ったのか、黙り込んでしまった。
もっとも、嘉芽市もよく知っているが、清助は平気な顔で嘘の吐けるような人間ではない。清助には、本当に満足な情報が与えられていないのであろう。
嘉芽市は、周介が指摘した問題とは別の不可解な点に気づいていた。
普通、隧道は何らかの利便をなすために作られる。たしかに、清助が示した隧道の南側の口付近には道が通っていた。ところが、北側の口の周囲は田畑があるだけで、百姓が野良仕事に通う小道以外には、利便を増す必要のありそうなものは何一つとして存在しない。
嘉芽市は、むずむずとする口を、とうとう抑えられなくなった。
「御代官様、この隧道は、いったい、何のために穿つのでございますか?」
清助は、左目の端から頬にかけてある赤い痣を、左の掌ですりすりと擦ってから、大きく目を見開いた。
「亀、余計な詮索は無用ぞ。お前は、命じられた場所に隧道を穿つことのみを考えればよいのだ」
清助は、嘉芽市の追及を拒絶した。目的が明らかにされない。急ぐ理由に説明がない。さらに、財貨面の裏付けも著しく不明瞭だ。まったくもって、摩訶不思議な工事だった。
(何処からか、想像もつかない力が働いているのでは?)
嘉芽市は、普請話の裏に潜む、焦臭(きなくさ)いものを嗅ぎとった。
嘉芽市には、大きな不安もあった。再び自然の力と対峙しなければならない点だ。
(またも、巨大な天地の力に叩き潰されるのではないか?)
今にもはち切れんばかりに水を湛えた堰を前に、おろおろと狼狽える小さな嘉芽市の姿が、映像となって頭中に去来していた。


第二章 藩命下る3

周介は、低く、嗄れた声で続けた。
「この度、御家老様からの命で、隧道の普請をする運びとなったのじゃ。ついては、儂に、測地から設計、さらには普請の指揮を執るよう、御代官様から、お話があっての」
周介は、口を一度おもむろに休め、清助に目を向けた。清助が視線を合わせ、こくりと頷く。
嘉芽市が来るまでの間に、周介と清助との間で交わされた同意事項をこれから告げるつもりらしかった。
「じゃがのう、儂も今年で七十二じゃ。無理の利かぬ身体となってしもうた。そこでな、儂の代わりに、亀、お前を推したのじゃ」
「えっ? はあ……」
嘉芽市は、もごもごと口籠もった。嘉芽市は、算法との関わりを完全に絶つためにやって来たのだ。これでは、思いを遂げるどころか、全く逆の結果となってしまう。
「亀、これを見よ」
横から、甲高い男の声が聞こえた。嘉芽市は声の方向に慌てて顔を向ける。
清助が、薄鼠(うすねず)の小袖の襟元から、折り畳んだ雁皮紙を引き出した。月代の額を光らせ、がさがさと、紙を畳の上に拡げる。
拡げた紙には、勝北郡の地図が記してあった。
清助は、いかにも実直な性格を窺わせるぎょろ目を瞬かせると、扇子の先を地図の中央に運んだ――山形山(やまがたさん)の西側の裾野あたりである。
山形山は、勝北郡の東を覆う山脈の一端を為す山だ。西に向け、幅の狭い裾野をにょっこりと突き出している。ちょうど、鼈(すっぽん)が首をいっぱいに伸ばし、加茂川に食らい付いた姿を思わせる地形だ。
清助の扇子は、鼈の首の根元部分をちょきんと切り落とすように、上から下に動いた。「隧道は、ここに穿つのだ」
清助は、嘉芽市を見て、まん丸の顔を恵比寿様の如く崩した。曖昧な嘉芽市の返事が、清助には、承諾の意思表示に聞こえてしまったようだった。
が、嘉芽市の胸には、吐き気に似た気色の悪い感覚が、むかむかと湧き上がってきていた。
「そ、そこは……」掠れ声で呟く。
清助の扇子の先は、他ならぬ堀坂の地にあった。しかも、隧道予定地から、西に三町ほど下ったところには、嘉芽市が、堰の崩れる瞬間を見た岩山があったのだ。
嘉芽市は、洪水以来、堀坂の近くにすら行くのを避けていた。
嘉芽市の額から、汗がぽたぽたと畳に落ちた。
隧道普請を引き受ければ、不快な記憶と焼け付くような失念の塊がいくつも転がっている地に、何度も足を運ばねばならない羽目になる。
南側の襖と障子が、がらんと開け放たれていた。三尺幅の濡縁の先に、小さく設えた庭が見える。
がっと強い風が吹き起こり、庭の右端にある秋牡丹の群落が大きくざわめいた。青紫の花と蕾が、ばさばさと左右に揺れる。
(断らねば。いよいよもって、この普請を受けるわけにはいかぬ)
はあはあと、息が乱れ荒れている。嘉芽市は、少しでも早く、はっきりと拒絶の意思を述べねばならなかった。
「せっかくのお話ではございますが、隧道の普請とは、なかなかの難工事――と、伺っておりまする。身共は若輩者であり、経験もございませぬ。どうか、他の者にお話をなされますよう、お願い申し上げます」
「いいや、亀でなければ駄目だ!」
清助の声が、決めつける語調で響いた。
「隧道の普請が困難なるは、亀の申す通りである。だが、雅兄(がけい)(周介)から算法を学んだ者は数多かれど、奥義の伝授を受けたのは亀一人。他の者に任せるわけにはいかぬ」
清助は、代官の立場にありながら、周介を心の底から敬慕し、「雅兄」と呼んで兄事(けいじ)していた。
清助から名指しされた嘉芽市は、断る手段を失った。
(ううっ、代官様の御命に抗えば、儂のみならず、父上や家内の者全員に禍が及ぶかもしれん)
ちらりと周介に視線を送ると、周介は、やんわりと目を細め、清助と嘉芽市の遣り取りを見ていた。
嘉芽市は、清助が同席した真の理由を悟った。周介は、嘉芽市が普請の請け負いを拒否する――と、予め読み、有無を言わさぬ方法を採ったのだ。
嘉芽市は、がたんと頭を垂れた。目を瞑り、震える唇をなんとか操って声を出す。
「し……承知、致しました」他の返事は思い付かなかった。


第二章 藩命下る2

周介の屋敷が見えてきた。
代官も待っている――と聞き、渋々腰を上げた嘉芽市だったが、今は胆を据えていた。
嘉芽市は、周介に向けて失言した上に、一言の断りもなく、勝手に交わりを絶ってしまった。長きに亘り、教えを受けた師に、恩を仇で返したに等しい。まともに考えれば、会わせる顔など、あるはずがない。
が、嘉芽市の算法への決別の意思は固かった。だとすれば、こそこそ逃げ回っているよりも、詫びる点はきちんと詫びる。その上で、師に、はっきりと絶縁の意思を告げるのであれば、むしろ格好の機会ではないか――と、考えたのだ。
代官が何のために同席するのかは判らない。だが、たとえば、嘉芽市の想像もつかない懲らしめが待っていたとしても、それはそれで、自ら望んで受けてやろう――とまで、踏ん切りを付けている。
言わば、庵の訪問を、算法を正式に捨て去る儀式と見なしたのだ。サキへの弔いにもなると思えた。
歩き始めた時には噴き出ていた汗が、炎天下を歩いてきたのも拘わらず、今はすっと退いている。
門を潜った嘉芽市は、母屋の前を左に折れ、屋敷の西端にある庵に向かった。一歩一歩に力を込め、己を鼓舞して、最後の一言の準備に、早くも懸かる。
高く枝を伸ばした木々が、庵を背後から包み抱くように、鬱蒼と立っていた。木漏れ日が、漆喰壁の表面で、くらくらと揺れ動いている。
入母屋造りの屋根に葺いた茅は、所々に苔が生え、くすんだ斑模様を見せていた。二、三本の草が、茅の間から顔を突き出している。
庵は、数年前、周介が医業を次男の吾市に譲り、隠居した時に建てた――と、聞いていた。
嘉芽市は、庵の東側にある入口の前に立った。
庵の中から、話し声が漏れ聞こえる。内容までは分からぬが、周介の声と察した途端に、嘉芽市の胸は、急にどきどきと動悸を速めた。
嘉芽市は、深呼吸を一度してから、「よしっ、行くで!」と、小さく叫んだ。
「中村嘉芽市、ただいま参上仕りました」抑えた声で告げ、庵の中に入る。
土間に踏み入ると、懐かしい匂いがふかふかと嘉芽市を包んだ。
二度と嗅ぐまい――と、思っていた匂いであったが、楽しい学びの日々を頭中に蘇らせ、気持ちを浮き立せた。サキがはしゃぎ、笑う声が聞こえ、朋友たちの議論がしゃきしゃきと耳の奥で響いている気がする。
が、愉快な幻想は、寸後には、捨て台詞を吐いて土間に飛び降りた時の、じっとりと冷たい足裏の感触に切り替わった。嘉芽市は、首をぶるぶると左右に振り、緩み掛けた気持ちをぐっと引き締める。
周介が算法を教える部屋は、庵の南側にあった。周介は今日も、慣れ親しんだ学舎で嘉芽市を待っているはずだった。
嘉芽市は、土間から板間に上がり、短い廊下の突き当りにある襖に手を当てた。胸がぐうっと熱くなってくるのを感じる。
「嘉芽市、入りまする」早口で言葉を切り、襖をかっと開いた。
上座の周介を筆頭に、右側に代官の亀田清助守尋、左には見覚えのない大柄の男が、向かい合って座っていた。
嘉芽市は、下座に、膝を揃えて腰を下ろし、低く頭を垂れる。
「先生、お久しゅうございます。失礼の数々、嘉芽市、お詫びもしようがございませぬ」
嘉芽市自身が思っていたよりも、すらすらと素直に、詫びの言葉が出た。
(さあ、次じゃ!)嘉芽市は、周介に決別の言葉を告げようとする。
ところが、嘉芽市が口を開く前に、周介から思いも寄らぬ労りの言葉が飛び出した。
「亀、如何致しておった? 随分と沙汰がなかったのう。心配しておったぞ。まあよい。頭を上げんか」
周介の声からは、暖かみこそ感じられたが、憤りは微塵も感じられなかった。
嘉芽市は、周介の心が読めぬまま、恐る恐る顔を上げる。すると、周介は、普段と変わらぬ、垂れ気味の人なつっこい目で嘉芽市を見ていた。
(どういうことじゃ? 先生は儂に御立腹されておるのではないのか?)
嘉芽市は、思いも寄らぬ周介の態度に面食らい、決別を宣言する最初の機会を逃してしまった。
皺に囲まれた口の下にある周介の平たい顎が、上下にかくかくと動いた。
「実はの、亀、折り入って、お前に頼みたい用向きがあるのじゃ」
周介は、女を思わせる細長い指を、焦茶の十徳の襟に絡ませた。大事な用件を語る際に、周介が見せる仕草だった。


第二章 藩命下る1

八月も終わりに近付いていた。
「どうじゃ? 嘉芽市、抜かりはないか?」
背後から、父の宗之助が声を掛けてきた。
嘉芽市は、目の前の用事に集中しているかのように装い、父の言葉に気づかぬ振りをする。
「庄屋様、さすがは、天童とまで呼ばれた御曹司でございますなあ。俵の数を積もる早さと言い、堂々たる立ち振る舞いと言い、とても本日が初日とは思えませぬ。これで、中村家も、ますます御安泰と思し召しますじゃ」
近くに控えていた組頭が、歯の浮く台詞を吐いても、宗之助は、お世辞とは気付かない様子だ。満足げな声で、「そうじゃろう、そうじゃろう」と、相槌を打っている。
堀坂の洪水以来、嘉芽市は、周介の庵に通うのを止めた。
もともと、宗之助は、嘉芽市が算法にのめり込む様を快く思っていなかったようだ。嘉芽市の変化を大歓迎し、庄屋の仕事に駆り出したのである。
嘉芽市は、周囲の者から見れば驚くほどの早さで、任せられた仕事をてきぱきとやってのけた。
宗之助は、嘉芽市の変貌と仕事ぶりがよほど嬉しいのであろう。せっかく、嘉芽市に現場を任せたのにも拘わらず、嘉芽市の手際を見物に、母屋から、何度も、ちょろちょろと庭に出てくる。
嘉芽市は、宗之助の覇者(はしゃ)ぎっぷりを、苦々しい思いで受け止めていた。
「ふん、しょせん、算法など、この程度しか役に立たぬのじゃ」小さな声で呟く。
長屋門を潜り、荷車に乗せられた年貢米が、屋敷に、次々と持ち込まれて来ていた。
母屋の前にある広い庭の真ん中に、柱と筵屋根だけで造られた相撲の土俵を思わせる作業場がある。
作業場では、野良着姿の六人の人夫が二組に分かれ、運び込まれた玄米を、せっせと俵詰めしていた。
嘉芽市は、御納戸方(おなんどがた)の仕事を任されていた。御納戸方とは、村単位で賦課された年貢を、庄屋が集め、藩に納める業務である。
嘉芽市は、今、玄米の俵詰めに立ち会っている。量目不足がないかを確認する役割だ。
玄米は三斗七升の俵にして納められていた。美作国では、四斗の俵にするのが普通であったが、田熊を含む勝北郡は、常陸国(ひたちのくに)土浦藩の飛び領地であるため、東日本の単位を用いていたのである。
人夫どもは、箕で掬(すく)った玄米で、御座の上に置かれた一斗桝(いっとます)と一升桝(いっしょうます)を満たしては、「よいしょ」と、俵に空けていく。
嘉芽市は、ちゃんと俵に三斗七升が詰められているかを見るとともに、名寄帳(なよせちょう)に記載された名請人(本百姓)ごとの年貢米の量と、実際の俵数を突合(とつごう)させ、確認していく。
名寄帳とは、検地をもとに作成される軸帳(土地一筆ごとに、田畑の反別、石高及び年貢高を記載した帳簿)を、名請人別の年貢額に集計し直した帳簿だ。
ところで、俵詰めの量目確認は、底四寸九分四方、深さ二寸七分の桝を一升として行う。かつては、底五寸四方、深さ二寸五分の桝を一升としていたところを、幕府が行った升目の全国統一に併せ、藩も追随し、変更していた。
変更につき、村には、「桝の深さを二分増やすが、底を縦横一分づつ縮める故、升目は変わらぬ」との説明が伝えられたらしい。
が、実は、一立方分の坪数(分を単位とした容積)で比較すれば、変更前が六二五〇〇坪、変更後が六四八二七坪となり、升目が大きくなっていたのである。要するに、百姓騙しの変更だった。
ところが、異議を申し立てた百姓はいなかった。百姓が無知だったわけではない。掛け算のできる百姓もおり、損得は見極められたはずだった。
「何故、百姓どもは黙っておったのじゃ?」
かつて、宗之助から話を聞いた時、不条理を感じた嘉芽市は不思議に思ったものだ。
が、今は百姓の心境が理解できる気がする。連年の洪水を運命と甘受する堀坂の村人に重なるものを感じた――不条理を察しても、「抗っても益なし」と諦め、黙々と受け容れているのである。
要は、算法がいかに合理を主張しても、算法を上回る力が働けば、何の役にも立たない――という結論に行き当たらざるを得ない。
嘉芽市は、算法に深く関わり、無用な智を得てしまった己が堪らなく憎らしかった。
今や嘉芽市には、算法が死物にしか思えない。重荷にすら感じ、いっそのこと、全ての算法の知識を失えれば、どれほど楽か――と、本気で考える時もあった。
「ううん」と、嘉芽市の口から、思わず不機嫌な声が零れ出てしまった。人夫どもが、驚いた顔をして、作業の手を止めた。
次々と搬入される荷車が、門の辺で渋滞している。堀坂とは異なり、田熊は水害が少なく、豊穣な地だった。
真新しい俵の匂いが、つんと嘉芽市の鼻を衝いた。
秋になっていたが、日射しは強く、米を運搬する者、俵詰めする者、米倉へ運び込む者、皆が皆、汗だくだ。筵屋根が差し掛けた影の中に立つ嘉芽市ですら、汗が、額と首筋に噴き出している。
「嘉芽市様、自景堂(中村周介)様から、お迎えが参っておりまする」
下男の声を聞き、嘉芽市は、はっと我に返った。
「なんじゃと?」
嘉芽市には、周介から呼び出される理由に心当たりはない。破門をわざわざ言い渡すために呼び出すのか? それとも、破門を免じ、庵に顔を出せ――とでも誘うつもりなのか?
だが、何の用件があるにしても、嘉芽市は、二度と庵の空気を吸う気にはならなかった。
招待を拒絶しようとした嘉芽市に、下男は「御代官様も、庵でお待ちとのお話でございます」と、付け加えた。
代官の名を聞けば、嘉芽市も無視はできない。


ウェビングテープを使ったワークショップ

23日に、農業高校の生徒さんを対象に、短時間のワークショップをしました。

この日のテーマは、岡山県が「次世代フルーツ」と銘打ち、推進している果樹4品種のうち、現在収穫期を迎えている「シャインマスカット」と「オーロラブラック」についての理解を、農業高校生に深めてもらうことです。

ワークショップに至る前に、農家の訪問、「シャインマスカット」と「オーロラブラック」の試食、スイーツ作り実習を経ています。

当日は、3高の生徒計27名が参加しました。「オーロラブラック」好きと、「シャインマスカット」好きのチームに分かれ、まずはウエビングテープを使って、チームの一体感を強化。丸く結んだウエビングテープの結び目をレーシングカーとして、早く廻す競争をしました。

続いて、「オーロラブラック」チームは、「シャインマスカット」チームの面々を、「オーロラブラック」派に引き込む説得のやり方を、「シャインマスカット」チームは、「オーロラブラック」チームのメンバーの気持ちを変えるための方法を話し合って貰いました。

発表の様子です。どのグループも代表者によるスピーチの方法を選択しました。「そもそもオーロラブラックは色が黒いので、暗闇では食べにくい」などの珍解説が頻出し、大爆笑。楽しい時間が過ごせました。


小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 10

空は、蝋色(ろういろ)から濃藍(こいあい)へと色を変えつつあった。
「サキ、サキ。どこじゃあー」
嘉芽市は、夜を徹してサキを探し続けた。
「生きておる。必ず生きておる。サキが死ぬものか」何度、同じ文句を繰り返しただろう。

サキの声を聞いた気がして、嘉芽市は何度も周りを見回した。二の腕に、サキの肌の感触を生々しく感じ、はっと、宙を掴む時もあった。
が、全ては幻に過ぎない。サキは見つからなかった。
嘉芽市は八歳から十三歳になるまで、堀坂から、さらに二里北にある加茂村の尾島宗一の許に預けられた。当時は嘉芽市の家の家運が衰えていたので、叔父で資産家の宗一を頼ったのである。サキは、宗一の長女だった。
嘉芽市は、頭脳明晰であったが、性格は内向的で、家に籠もり、一人で算術の問題を解いてばかりいる子供だった。
ところが、開放的で明るいサキとの出会いが、嘉芽市の性格を大きく変えた。サキとともに野山を転げ回る間に、嘉芽市は積極的で前向きな人間へと成長を遂げたのである。 また、五年間は、子供心にも、サキへの恋慕を募らせていった期間でもあった。
サキが周介の庵に通うようになって、二人は再会し、二年の空白を一気に埋めようとするかの如く、仲を進展させた。
今の嘉芽市にとっては、サキ不在の将来など考えられなかった。
陽が昇る頃になると、村人が、ばらばらと戻って来はじめた。縁者が行方不明となり悲嘆に暮れる者もいれば、跡形なく消えた家や、田の所在すら不明になった光景にがっくりと項垂れる者もいた。
「わりゃあ! 嘉芽市」
嘉芽市は、突然、怒鳴られ、どんと横から突き飛ばされた。
泥の中に横倒しになった嘉芽市を、小太りで背の低い男が見下ろしている。弥十郎だ。
嘉芽市は、蒸れた泥が鼻の穴に入り込み、むっとした息苦しさを感じた。
「ようも、やっちもねえ堰を作ったな。お陰で、この有様じゃ。どうしてくれるんなら! 言うてみいや!」
弥十郎は、嘉芽市を睨み付け、口を荒らしている。堀坂に住み、嘉芽市よりも二歳年上だ。
サキに岡惚れし、嘉芽市との仲を嫉んで、ねちねちと絡んでくる。サキに言い寄る時もあり、何回か、嘉芽市が叩きのめしていた。
いつもなら、口でも喧嘩でも、弥十郎は嘉芽市の敵ではない。が、今の嘉芽市は、弥十郎に口答えすらできなかった。
「何も答えられまいが」
弥十郎は、勝ち誇った顔で、にたあと笑った。嘉芽市の失敗に幻滅したサキが、己に転がり込んでくるかもしれぬ――とでも思っているのだろうか。
その後も三日間、嘉芽市はサキを探し続けた。が、ついにサキは見つからなかった。 思いもつかない程、下流まで流されたのか、あるいは泥の中に埋もれてしまったのかは分からなかった。サキ以外にも、行方が知れない者が数人いた。
「サキを堀坂に連れて来なければよかった……」
悔やんでも悔やみきれない。堰に対する過信があった故に、堀坂に「一緒に行く」というサキの希望を受け容れてしまった。
弥十郎の言葉も、嘉芽市の心に、厳しく突き刺さった。
嘉芽市を責める村人は、弥十郎の他には誰もいなかった。むしろ、慰めの声を掛ける者までいた。自然の脅威に対して、人間が無力である経験を、何度も味わっているからだろう。
実際、上流の土砂崩れまで当初から計算に入れろ――などと注文するのは、どだい無理な話だった。
が、嘉芽市には、弥十郎の言葉が、村人全員から発せられたように思えてならなかった。
これまで、算法の素晴らしさに魅了され、かつ、絶対的な真理の法則として信仰してきた。が、サキを失い、村人に大きな打撃を与えてしまった責任は、算法を過信した嘉芽市にあるのは間違いない。
嘉芽市は、誇らしげに算学士を気取っていた自分を、堪らなく許せない気持ちになった。それどころか、「算法さえ、此の世になければ」と、筋違いな恨みすら感じた。
「もう、算法の道は捨てよう……」嘉芽市は心に決めた。
今にして思えば、周介の庵を飛び出した行動も、算法との関わりを断つには適当な切っ掛けだったかもしれない――と、思う。


小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 9

みしっみしっ――気味の悪い軋み音が暗闇の中で響く。
音の出所を推し量る必要はなかった。砦の内陣いっぱいに詰まった水が、前面にずっしりと圧力を掛けているに違いない。
嘉芽市は、サキの顔を思い浮かべた。堰が切れれば、当然の如く、水はサキの家を襲う。嘉芽市が、今から駆け出せば、水が弾けるまでにサキの家に到着できるかもしれなかった。危険を早く伝えれば、水難を回避できる可能性はある。
どおん、と、今度は、大きな打撃音が響いた。嘉芽市の身体が、不覚にも、びくりと動く。
「もう駄目じゃ。何をじっとしておる? 早う、サキのところへ走れ!」嘉芽市の中で、声高な叱咤が飛んだ。
だが、破局の最後通告とも思える音を耳にしてなお、嘉芽市は動かない。
堰がまだ崩れていない事実がある限り、「このまま保ち堪えてくれるのではないか」との期待を捨て去れなかったからだ。自らが為した業への愛着や未練に根ざした思いであり、算学士の誇り云々とは、また別次元の心理だった。
雨は上がっていた。分厚い雲は早々と去り、半月の光明が、薄い雲の膜を通して、地べたをうっすら照らし始めている。
温味を帯びた風がそよそよと流れ、嘉芽市の頬を撫でた。これまで、黙(だんま)りを決め込んでいた蛙が、けろけろと喉を鳴らし始めた。
大荒れの天気が嘘のように去り、今は、穏やかで温もりのある平穏な夜が、嘉芽市を包んでいる。
(保ち堪えたかもしれぬ)
どれほど時が経過しただろうか? 嘉芽市は、ふと心に浮かんだ楽観的な思いを、敢えて否定しなかった。なぜなら、打撃音以降、不穏な音はぴたりと途絶えたからだ。
堰の上流を覗き込めば、柔らかい月の光を浴びて、満々と溜まった水が、ぴかぴかと清明な光を照り返していた。頻繁に編成を組み替えていた兵団が、いつの間にか、動きを止めたように見える。
堰の強度を高めようと、根置の厚みを増した工法が当たり、最後の踏ん張りに応えた――このまま無難に乗り切れば、嘉芽市の知恵と算法の力が、土壇場で、大水を凌いだ結果となる。
「されば、やはり算法の力は……。儂は、何を迷っておったのか?」嘉芽市は、ゆるっと、頬の肉が持ち上がるのを感じた。
だが、嘉芽市の安寧は、つかの間の夢に等しかった。
突如として、どどおん、と、落雷を思わす轟音が響き渡るや、絡まった木々を八方に吹き飛ばし、無惨に砦は砕け散った。
天まで届くかと思うほどの高い水飛沫が吹き上がった。いくつのも波頭を拵えた夥しい量の水が、出番を待ち構えていた騎馬軍のように一気呵成に走り出す。
凄まじい水の動きは、周囲の空気まで揺さ振った。水垢と樹木の脂の混ざった匂いを孕んだ烈風が、川を見下ろす嘉芽市の顔や髪に、ぶおっと吹き付ける。
「あ、ああ……」
嘉芽市は、轟々と、凶暴な水塊が、餌食を目指して転がっていく様子を、痴呆の如く見詰める他はなかった。
びしゃっと、顔に冷たい水が掛かった。河床から、遙かに高い位置にいる嘉芽市のところにまで、撥ね水が飛んでくる。
嘉芽市は、ぎくりとして、岩に伏せていた身体を立ち上げた。激しい動悸が胸中を襲っている。空っぽになった頭の中で、サキの笑顔が、陽炎の如く揺らぎながら、薄らぎつつあった。
嘉芽市は、岩山から、急坂をどっどと駆け下りた。
「サキ! サキ!」口から泡を飛ばしながら、サキの村に向かい、遮二無二ひた走る。
二度三度と足を滑らせて転び、泥だらけになったが、気にする余裕はなかった。
道の中途からは、濁流の中を進まざるを得ない。嘉芽市は、水の中にどぶんと足を踏み入れ、流れに背を押されるように進む。
なんの指標もない。追分の位置も分からない。
が、迷う不安はなかった。洪水の流れに乗っていけば、必ずサキの村に辿り着ける――という、辛い確信があったからだ。
サキの村を眼前にした嘉芽市は、唖然とした。
「な、ない!」全てが流されていた。家も蔵も見当たらない。木も草もない。村が存在していた痕跡すら、ない。
人が住んでいた形跡など、何一つ残っていなかった。勢いを緩めた川が、たらたらと泥の荒野全体を洗うように流れているだけだ。
嘉芽市は、まだ、脹ら脛の高さほどの水位を残す流れの中に、がくっと手を衝き、膝を落とした。ひゃっとした水の底は、ぬるりと不快な泥の感触がした。


小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 8

岩山まで、あと一町のところで、嘉芽市は立ち止まった。
「なんじゃ、この静けさは?」
道は大きく西に回り込んでいる。一度は離れた加茂川に、再びぐっと近付いているはずだった。
ところが、ぽそぽそと疎らな雨が降り落ちる音以外には、水が弾ける音も、岩のぶつかる音も、さっぱり鼓膜に感じない。
神経を集中し、耳に手を添えて、周囲の音をぐるりと拾ってみた。しかし、結果は同じだった。
「おかしい。なぜ、川の音が聞こえぬのじゃ?」
嘉芽市は「道を間違えたのか?」と疑った。確かに、昼間と夜間では、風景の見え方は一変する。迷った可能性も考えられる。
だが、サキと分かれた場所以外には、方向を間違えそうな追分は、思い当たらなかった。
――と、すれば、嘉芽市のいる位置から、さほど離れていない場所に川があるはずだ。
嘉芽市の胸を、不吉な予感がざあっと過ぎる。
「まさか……? いや、そんなことは決してあり得ぬ!」
嘉芽市は、縁起でもない発想を、急いで打ち消しに懸かった。
最後の一町の道のりは、岩山に登る急な坂となっている。嘉芽市は、四つん這いとなって、草を掴み、岩山のてっぺんを目指して這い上った。
ぐちゃぐちゃで踏ん張りの利かない坂道は、普段に増して、足腰の力を要求した。
ようやく、岩山の頂上に辿り着く。はあはあと息が激しく乱れていた。四つん這いの姿勢のまま、岩の上から胸まで宙に突き出す。
「あ……あほな! ど……どうした……こと……じゃ?」
堰のある辺りを見下した嘉芽市は、掠れた声を途切れ途切れに漏らした。
先程、頭中を過ぎったばかりの穏やかならぬ光景が、そのまま目の前にあったからだ。
木々を複雑に捻り絡ませた巨大な砦が、大きな影となって、堰全体にのし掛かっていた。
もちろん、人間が建造した城塁ではない。上流から押し流されてきた流木の幹、折れた枝葉、塵芥が、堰に溜まり絡まって、上方に迫り上がっていたのである。
荒れ狂う激流の姿は見えない。岩の転がる音も消えていた。だが、砦の中では、続々と上流から押し寄せる増兵が渦巻き、力を蓄え、「いざ、討って出ん!」とばかりに出陣の合図を待っている。
砦の隙間から下流にびゅうっと噴き出した水が、しょろしょろと、申し訳程度の細い流れを形成し、仄かな水明かりを放っていた。
嘉芽市の心ノ臓は、どこどこと、けたたましく鼓動を打っている。
「どうしてじゃ? 蛇篭はどうした?」
嘉芽市は、誰もいない夜陰に向けて、あたふたと問い掛けた。もちろん、返事はない。続けて、周囲に助けを求めるが如く、きょろきょろと辺りを見回す。
すると、堰の上流から五町ほど離れた場所に、視線がぎえっと釘付けとなった――夜目にも明らかなほど、山肌が幅広く捲れ落ち、灰色の地肌が剥き出しになっていた。
「そ、そうか……。山が崩れ、川に流れ込んだのか……」
腕が付け根から抜け落ちるかと思うほど、がくりと肩の力が抜けた。
うち続く豪雨で、地盤が緩んだ山肌から多量の土石が崩落した。そのまま川の流れに乗って堰に押し寄せ、堰の底に次々と沈殿したに違いない。
せっかく、綿密な測量と計算で弾き出した洗堰の幅も、堰の深さが変化すると、全くの無意味と化す。
「岸から溢れんばかりに水嵩が上がれば、もはや、蛇篭には川の流れは導けぬ……」
かくして、毎度と変わらぬ洪水劇の準備が、あっと言う間に整った。
「結局は、天地の力の前では、算法の理屈なんぞ陳腐な茶番に過ぎぬ――と、言うのか?」
嘉芽市は、両拳で頭をがんと挟み付けた。算法の理論で堅牢に武装したはずの自信が、思いもよらない邪魔者の手で、こなごなに粉砕されてしまった事実に愕然とする。
「おまけに、なまじ堰を頑丈にしたがために、少々の水では破れず、ここまで水嵩が上がってしまった……とは!」
嘉芽市の口から、くっくっと、場にそぐわない笑いが吹き出した。皮肉な結末への自嘲が生んだ、苦く、黒く、くすんだ笑いだった。
ようやく嘉芽市は、今朝からの胸のざわつきの理由と、嘉芽市を堰に追い立ててきた者の正体を、はっきりと悟った。
嘉芽市は、算法の絶対的な力を信じながらも、本能では、長々と降り続ける豪雨に対し、底深い恐れと不安を感じていたのだった。
だが、嘉芽市が、胸中の本能の蠢きを認めれば、算法の万能性を疑う――という自己否定に繋がる。つまり、算法への圧倒的な信仰と本能との水面下の鬩ぎ合いが、嘉芽市に胸のざわめきや、苛つきをもたらしていたのである。
堰に急いだ行動も、同根だ。激しい葛藤に音を上げた潜在意識が、早く軍配を下して、争いに終止符を打ってしまおうとしたのだ。
嘉芽市の敗北は決定的だった。最悪の結末に向けて、刻々と時が進む。
もはや、堰の保持力に懸けるしかなかない。
「頼む。保ち堪えてくれい」
嘉芽市は、砦に向けて手を合わせ、祈り始めた。算学士としての誇りは、一切合切、消えていた。