殺生石って知ってますか3

殷王朝は結局、紂王の代で終わりました。妲己に化けた金毛九尾の狐が国を一つ滅ぼしたわけです。

はてさて。いったんは滅びたと思われた妖狐は、700年後に再び顕れます。場所は南天竺(西域インド)。今度はマガダ国の王子班足(はんぞく)の華陽夫人として・・・。

王子も華陽夫人にそそのかされ、言うがまま、乱行、非道を繰り返しました。時には、千人もの首を刎ねることも。古代インド第一の名医 キバが夫人を魔界の妖怪と見破り、金鳳山中で入手した薬王樹(枇杷のようです)で作った杖で夫人を打つと、たちまち本体を現し、北の空に飛び去ったと言います。

oblighetto.tumblr.comより。

 “華陽夫人采姫が眼を射て斑足王をなぐさむ”

 


殺生石って知ってますか2

金毛九尾の狐が、最初に顕れたのは、紀元前11世紀頃です。

中国古代王朝・(いん)の紂王(ちゅうおう)の前に、世にも稀なる美貌と淫奔さを併せ持った姫の妲己(だっき)として登場しました。

妲己の虜となった紂王は、彼女の欲望を満足させるためには何でもするようになります。

人民を酷使して、豪壮な宮殿を造営させました。また、池に酒を満たし、その周りに豚肉を下げて林とし、淫らな音楽に合わせて全裸の男女を踊らせ、それを眺めながら妲己と淫楽に耽ったり、と・・。これが「酒池肉林(しゅちにくりん)」という熟語の由来です。

忠臣たちが、紂王の常軌を逸した行動を戒めますが、聞く耳を持ちません。かえって、遊びに飽きて笑いを失った妲己の歓心を買うために、忠実な部下を炮烙(ほうらく)の刑(油を塗った銅の棒の上を歩かせて、火中に落とし焼死させる)に遭わせたり、毒虫を入れた穴に投げ込んだりするなど、残虐の限りを尽くしました。「炮烙焼き」とは、ずいぶん違いますが、料理が食べにくくなりますね。

中国のお話「封神演義」では、狡賢く立ち回る妲己と、妲己に操られる紂王、それでも紂王の改心を願い、自らの命まで絶って忠心を尽くす部下たちの姿が描かれ、読む者に、これでもか、と言うほどに、怒りと苛立ちとやるせなさを感じさせます。

最後には、周の軍士であった太公望の法力で倒されるのですが、しばしの休息に入ったに過ぎませんでした。

葛飾北斎画『北斎漫画』より「殷の妲己」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%B2%E5%B7%B1)を利用しました。

 


殺生石って知ってますか1

殺生石にまつわる妖狐の話を、子供時代の平茂寛は凄まじい衝撃と恐怖のもとに受け止めました。その怖さの程度が尋常でなかったので、周囲の人々も同じぐらい知っていると思い込んでいました。

でも、話してみると歯車が噛み合わなくて・・・。「聞いたことがない」という人が結構いるのです。

実は、岡山県に深い関係のある話題なのです。なぜって? そこで、本日から、少しづつ話題提供をしていこうと思います。

この狐は「金毛九尾(こんもうきゅうび)の狐」あるいは「白面(はくめん)の者」と呼ばれ、wikipediaでは「日本史上最強の妖怪」として紹介されています。

顔は白く、金色の体毛を持ち、九つの尻尾を持っています。

班足太子と九尾の狐。歌川国芳の浮世絵より

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B0%BE%E3%81%AE%E7%8B%90に掲載されたものを利用しました)

身近な物語では、漫画の「うしおととら」、中国の小説「封神演義」に出てきて、徹底的に悪事を尽くします。この他にも、小説で取り上げられている例は結構あります。富樫倫太郎先生の作品にもありました。

次回は、中国での活躍ぶり(?)から・・・。


「隈取絵師」執筆の際に、お世話になった日本画教室を訪問しました

小説「隈取絵師」の執筆に関し、日本画を学ぶため、津山市が主催する日本画教室に1年間通いました。

教室で御指導をされている杉山先生を訪ねました。杉山先生は、非常に熱心なご指導をされ、生徒さんも、熱意に応えるように、月二回ほどの教室の間に、家でかなり描き込んできます。教室の日だけしか筆を執らない不真面目者は、私ぐらいでした。

日本画では「隈取」という技術が特徴的で、しかも非常に多くの場面で使われる。さらに「隈取筆」なるものまである、と、教室に通った最初の日に教えて貰いました。今の私の中では、「隈取」=日本画とまで昇華されています。

小説を発行してから、「題名を「隈取絵師」と名付けました」と、杉山先生に報告すると、「日本画を描く人でないと、思いつかない名前ね」とのお言葉を頂戴し、感激したのを覚えています。

絵師が、どのような心理状態で筆を執るのか分からず、行き詰まった時がありました。杉山先生に直接疑問をぶつけた時のお答えは、意外や意外。「あなたの心の思うままに書けばいいのよ」の一言! 驚きました。「無心です」なんて返事をするんだろうなあ、と予想していたので。でも、猛烈に吹っ切れました。恵斎が絵筆を操る時のシーンの評価は、読者の皆様に委ねなければなりませんが、執筆が、急にすらすらと進み出したんです。

「よう、来たなあ。おめでとう」この日も、いつもの明るい声で、教室で学ぶ皆さんとともに、迎えていただきました。

写真は杉山先生とのツーショット。

 


神南備山。鍬形蕙斎作「津山景観図屏風」の視点と思える場所。

鍬形蕙斎が描いた「津山景観図屏風」は平成15年に津山市内の民家にあることが確認され、現在、津山郷土博物館に所蔵されています。

今や恵斎の代表作となった「江戸一目図屏風」を見た人は、誰しも、「いったい、この絵は、どこから江戸を見て描いたのか」と疑問に思います。楽しい謎であり、恵斎の非凡さを感じさせる点でもあります。

一方、「津山景観図屏風」では、視点が、津山市の南にある神南備山(かんなびさん)にあったのではないかと思わせます。つまり、実際に視点と見なせる場所が存在しているのです。このことは、「江戸一目図屏風」の不思議度を、かえって増す気がします。

写真は、霧に煙る神南備山。

 

 


博物館みたいな図書館の展示

一ヶ月前に上京した時、新宿駅西口で、東京都立中央図書館の「情報、江戸を奔る」という展示会が開催されてました。

さすが東京! 展示内容は、図書館と言うよりも博物館みたいでした。こうした機会に常時恵まれる東京の皆さんは幸せですね。

 

 

 

 

馬喰町を出発点に、四日で東京を楽しむためのガイドブック。

 

 

 

 

源氏物語の双六

下は絵草紙屋

 

 

 

 

 


霧の中の津山城趾

金曜朝の通勤時です。津山城が霧に包まれていました。方角的には、城の西側から見上げたところです。樹木が繁っているので、山に見えてしまうかも。

子供の頃、静岡県の牧ノ原台地に親戚がいた関係で、よく遊びに行きました。茶園で有名なところです。濃い霧がよく出ました。牛乳色のガスに覆われ、4~5メートル先すら見えなくなる時もありました。

そんなときは、霧を食べようと試みたものです。しかし、何度、挑戦しても、満足するような感覚は得られなかったのを覚えてます。


親子の会話

高校生の息子:お父さん。そのガラスの小瓶、いったい何だよ。お母さんに香水でもプレゼントするの?

父親:いいや、これは、お父さんが使うのさ。ちょっと匂ってみろや。

息子:あれえ、ぜんぜん匂わない。これって本当に香水?

父親:ふふふ、これはな。フェロモン香水っていうもんさ。アメリカのえっらい先生が発見したって話だ。いろいろと実験を積み重ねてな、効果も確認ずみのシロモノだ。

息子:フェロモンって、昆虫の雌かなんかが、雄を引き付けるもんだろ。これで、雄のゴキブリでも引き寄せるつもりかよう。

父親:馬鹿言うな。これは、人間のフェロモンさ。驚くなよ。女性を引き付ける匂いなのだあ!

息子:ええっ! じゃあ、これって、要するにモテ薬じゃないかよ。こんなもん、嘘にきまってるだろ。

父親:いいや。そう簡単に決めつけては駄目だぞ。まだまだ、この世には分からぬことが山ほどある。お父さんは、理科系の人間だ。不可解なものがあれば、取り寄せて、実際に自分で確かめてみなけりゃ、気が済まないタチなのさ。

息子:じゃあ、これから毎日、コレを身体に振りかけて、出かけるつもりかよ。

父親:う、うん。そりゃあ、そうさ

息子:実験が聞いて呆れるぜ。ただ女にモテたいだけのくせに。どうせ、エロ本に載っていた広告でも見て、欲しくなったんだろう。あーあ、これが自分の親かと思うと恥ずかしいよ。

父親は、息子の厳しい指摘に沈黙。

息子:ところでねえ。

父親:なんだ?

息子:その香水、あとで僕にも貸してくれる?

・・・・以上、若干の脚色はありますが、我が家の実話です。


歴史音痴の時代小説家です

今回は自虐ネタです。

子供の頃から歴史の勉強が嫌いでした。暗記するのが面倒だったからです。無理して記憶しても、身につくものではありません。今でも覚えているのは、「いい国つくろう鎌倉幕府(1192年)」だけです。結局、歴史については全く不勉強のまま学業を終えました。

就職してから5年目だったでしょうか。職員旅行で山口・島根に行った時は、大恥を掻きました。なにせ、「松下村塾」の看板を見て、「松下政経塾はここにあるのか」などと、本気で発言してましたから。

翌日、萩観光に回っていた時です。私の歴史音痴ぶりに呆れた同僚から「木戸孝允って知ってるか」と聞かれました。その時の私の返事は「その人は知らないけれど、桂小五郎なら知っている」でした。

さらに津和野の博物館で「西周」の名を見て、「さいしゅう? どうして中国人がここにいたの?」

そんな私でも、今は、歴史に関わりを持って生きている。不思議なものです。