岡山駅付近の繁華街で?

通勤途上の岡山駅近くのアーケード街で、今朝、イタチの死骸を見掛けました。毛並みもよく、死んでから、あまり時間が経っていない様子でした。

私の住む津山市では、まれに道を素早く横切るイタチの姿を見ることがあります。高速道路の法面では雉の親子を見たことも。

でも、岡山駅周辺と言えば、県内一番の都会。こんなところにも住んでいるんですね。

4S4W1062イタチ(県民の森)tt.jpgfukurou.naturum.ne.jpより。


岡山駅東口で次世代フルーツの試食会をしました

7月27~28日の2日間、JR岡山駅東口で「北区産直市+ベジ・フル マルシェ」が開催され、28日にスタッフとして参加してきました。

マスカットを買い求める来場者

私の仕事は、「次世代フルーツ」と銘打って、岡山県が推進に力を入れているぶどうの品種(シャインマスカットオーロラブラック)に加え、岡山特産のマスカット・オブ・アレクサンドリアの試食とアンケートです。

シャインマスカット写真

ブドウのオリジナル新品種「オーロラブラック」

上がシャインマスカット。マスカット・オブ・アレクサンドリアの風味を受け継ぎ、上品な甘さと種なしで皮ごと食べられるところから、全国的に大人気の品種です。

下はオーロラブラック。大粒で甘みの強いのが特徴です。これまた人気の品種。

今回は、若い世代を中心に試食とアンケートをしたので、対象者を目で選び、お願いをしました。怪しい人物に見られるのか、初めは、なかなかOKしてくれる人がいませんでしたが、断りの意思表示に慣れた頃には、なんとか目標数をクリアーできました。


弁当の日で有名な竹下和男先生の講演を聴きました。

26日に、岡山で、竹下和男先生の講演がありました。小学校の校長先生の時に、「お弁当の日」を提唱・実践され、すばらしい成果を挙げられておられる方です。

講演会の時間のほとんどを、BGM入りのプレゼンテーションに使われていました。

いい講演でした。今できることをやろうと思いました。

子供の笑顔に感動して、3回泣きました。五十を超えると、涙を見られても全然恥ずかしくないですね(私だけ?)。

左目は正常でしたが、右目の涙腺が詰まっていることが発覚しました(涙が流れない!)。


殺生石って知ってますか10

さて、玄翁和尚の力で、殺生石は3つに砕けて散り、3カ所の、いずれも高田という地名の場所に飛来したと説明しましたね。このうちの美作国高田(岡山県真庭市勝山)に飛来した石についてお話ししましょう。

高田に飛来してからも、殺生石は毒ガスを噴き出し、人畜に災厄をもたらしました。しぶといですねえ。

当時、高田の地を治めていたのは、金毛九尾の狐にとどめを刺した三浦介義明の六代目の子孫・三浦貞宗でした。貞宗は、ちょうど伯耆国退休寺にいた玄翁和尚を高田の地に招き、再度、殺生石を調伏して貰うことにしました。

玄翁和尚は、法力によって殺生石を一丈六尺の地中に埋め、その上に廟を築いて殺生石大明神を祀りました。死しても毒を撒き散らし続けた妖狐も、ついに力を完全に封じられたのでした。

これでいよいよ話は終わりですが、ここで是非、皆さんに知っていただきたいことがあります。

JR姫新線の中国勝山駅を下りて、駅を背に、そのまま三百メートルほど緩い坂を上ると、「化生寺(かせいじ)」という名の寺があり、今も、ここにちゃんと殺生石が祀ってあるのです。寺の名前からして、そのものズバリです。寺に並んで玉雲宮という「玉藻前」を思わせる神社まであります。

アジアを股に掛けて大暴れした極悪大妖怪を身近に感じる、という表現もおかしいですが、金毛九尾の狐の話は、本当にあったのではないか・・・。寺の境内に佇み、殺生石を見ていると、ついそんな気になります。

video.the-search.jp – 化生寺の殺生石(九尾の狐) 噂の杜より引用。奥の石の柱に囲まれた中央に殺生石があります。ただし、本物は地中深く埋めてあるのだから、これはレプリカ! 丁寧にも、包み隠さずの説明(下の写真)まであれば、本当かも? と、よけいに思いたくなります。

化生寺・殺生石

http://b-spot.seesaa.net/article/107336351.html から引用しました。

 


殺生石って知ってますか9

さらに数十年が過ぎました。

相も変わらず毒ガスを噴き出し続けている殺生石を何とかしようと、朝廷では、幾人もの名のある僧侶を那須野に派遣して、殺生石の邪気を鎮めようとしました。しかし、いずれも、毒気に中って倒れてしまうばかり。

最後に派遣されたのが、下野国示現寺(じげんじ)の玄翁和尚(げんのうわじょう)でした。

この和尚はこれまでと違い、なかなかの名僧。卓越した法力で殺生石を調伏てしまいます。さらに柱杖(すじょう)で三度叩いたところ、石は三つに割れて飛び散り、それからは祟りがなくなりました。元中二年(一三八五)八月十三日の出来事と、やけに具体的に日付までが伝えられています。なお、石を割るような大きな金槌を、玄翁と呼ぶのはこの故事によります。

飛び散った殺生石の三片は、それぞれ美作国高田(現岡山県真庭市勝山)、越後国高田(現新潟市上越市)、豊後国高田(現大分県豊後高田市)に飛来したとされています。なお、三カ所のうちの一カ所が安芸国高田(現広島県安芸高田市)という説もあります。

どうしてみんな「高田」という地名なんでしょうね。本当に落下した場所なので同じ名称になったのか(高台という意味があるようなので)? それとも「同じ高田の地名だから」と、後から、それらしく関連づけたのか? うーん、前者の意見のほうが魅力的だなあ。

ここまでは、かなりの人が知っているかも知れません。でも、このお話には、まだ先があるのです。

那須の殺生石(obaa.jugem.jpより)。 しめ縄をしているのがたぶんそうなのでしょう。でも、三つに砕けて飛び散ったんだから、ここに殺生石があるとマズイと思うんですけど。


殺生石って知ってますか8

妖狐が逃げ去ってから十七年後のことです。下野国は那須の領主から、那須野原に、青い幣が落ちていると報告がありました。当時、那須では、何者かによって、婦女子や旅人が誘拐されては食い殺される事件が頻発していました。

「これはもう、古狐めの仕業に違いない」鳥羽上皇は、妖狐退治のため、三浦介義明と上総介広常という二人の武将に八万の軍勢を与え、那須に送り込みました。

数を勢いに、とうとう金毛九尾の狐を追い詰めました。最後は、三浦介義明の放った矢が眉間を貫き、ようやく狐を射止めたのです。

ところが、大妖怪の悪念は、そんなものでは消えません。死するや石と化し、今度は、毒ガスを噴き出し始めました。近くを通る鳥獣がその気にあたって死ぬことが多く、ついには、殺生石と呼ばれるようになったのです。

話はまだ続きます。

inuyashya.web.fc2.com – 殺生石は下野国那須野 (しもつけのくになすの) にあり。


殺生石って知ってますか7

さて、鳥羽上皇は、玉藻前への寵愛を深めるほどに、病みがちとなり、心身共に、著しく衰えを見せるようになりました。

そこで、安部泰成(あべのやすなり)という陰陽師が、易をもって占ったところ、玉藻前は妖怪であり、その悪巧みで上皇が病に苦しめられていると看破しました。

陰陽師と妖狐との戦いが始まりました。泰成の調伏に身体の自由を奪われながらも、鋭い歯を剥き、僅かの隙をも衝いて、逆襲を狙おうとする狐・・・。時には、淫らな痴態を示し踊る裸女の幻影を泰成に見せつけ、心の動揺を誘おうとしたでしょう。

しかし、勝負は、泰成に軍配が上がりました。すると、玉藻前は、完全な妖狐の姿となり、雲を呼び風をおこし、辰巳の方角に飛び去ったのです。

「逃さぬっ」泰成は、四色の(ぬさ)に気を込めて、狐に投げつけました。すると、青色の幣だけが狐の後を追って見えなくなったので、「青色の幣があるところに金毛九尾の狐がいる。幣を見つけたら都に知らせよ」との命令が出されました。

この安部泰成は、かの有名な安倍晴明の七代目とされる人物です。知っている人物(の後裔)が思わぬところで絡んでくる。いやあ、興奮しますねえ。

prosv8.tok2.com – 「安倍泰成九尾の狐を見破る」 西光寺 (福崎町・熊野神社)より。

 


殺生石って知ってますか6

妖狐が、遣唐使船で日本に上陸してから約360年後の平安時代後期。坂部行綱(ゆきつな)なる北面の武士が、捨て子を拾いました。それはそれは可愛らしい女の赤子でした。行綱は子宝に恵まれていなかったため、藻女(みずくめ)と名付け、大切に育てました。

藻女は、育つほどに、目を見張るほどの美女に成長していきます。18歳の時から宮中に仕えることとなり、前年から院政を敷いていた鳥羽上皇を、たちまち虜にしてしまいました。

皇后に皇子誕生の祝宴の夜、風が吹いて、灯火が全て消えました。その時に、藻女の身体から不思議な光線が発して、周囲を明るく照らしたと言います。これでますます上皇は、藻女をお気に入りになり、以来、藻女は、玉藻前(たまものまえ)と改名しました。

いくらのぼせていても、この辺りで「ちょっとコイツ、おかしいな」と気付いて欲しいものですが。

ja.wikipedia.org – 玉藻前. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア

 


殺生石って知ってますか5

さあ、いよいよ金毛九尾の狐が日本に来る時が来ました。

時は西暦753年だから奈良時代。若藻(わかも)という16、17歳の美少女に化け、彼女に惑わされた吉備真備(きびのまきび)の計らいによって阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、鑑真和尚(がんじんわじょう)とともに第十二回目の遣唐使船に乗船。嵐に遭遇しながらも博多に到着したといいます。一説では、物見胡散で、つい船に乗ったら、出港してしまった、という話も・・・日本に到着するや、たちまち姿を消しました。

20090324‑kibi12.jpgkurashiki-tabi.jp 500×332 – 吉備真備(きびのまきび 

ここから妖狐と岡山との関連が出てきます。吉備真備は岡山県の倉敷市真備町出身。学者であり、俗説ではあるが片仮名を創設した人物とも。菅原道真と並び称される天才とも言われています。さらに一説では陰陽師で、安倍晴明の先祖という話がある人物です。

それにしても陰陽道に長けた人物が、妖狐にたぶらかされたというのは情けない。また、鑑真和尚ほどのお人までいたのだから、狐の姿を看破するとか、調伏するとか、できなかったものですかねえ。きっと乗った船が違っていたのでしょう。なお、阿倍仲麻呂は途中の嵐が原因か、船が難破して、日本には到着できなかったとされています。

 


殺生石って知ってますか4

次に妖狐が姿を顕したのは、再び中国でした。今度は、褒姒(ほうじ)といいう名の、これまた絶世の美女に化けて、西周の幽王の許へやって来たのです。当時、幽王には申后という后がいましたが、王は美貌に魅せられ、申后を廃して、彼女を后としました。

ところが、褒姒はどんなことがあっても王に笑顔を見せてくれないのです。

愛する女の笑顔ほど、男を癒やし、鼓舞するものはありません。その逆もしかり。「何で儂に笑い掛けてくれぬのじゃ。褒姒。この儂が好かぬ、と申すのか」冷たい表情に突き当たる度に、王は身悶え、地獄に落とされたような気がしたでしょう。

王の愛は純粋で、思春期の胸中を見るようでもあります・・・日頃から仏頂面の妻を見慣れてしまい、突然、笑い掛けられれば、「何だ?」と、身構えるような状況とはちょっと違うようですね。

さあて、笑顔を見くてたまらない王は、様々な手段を用いました。高級な絹を裂く音を聞いた褒姒が、フッと微かに笑ったので、幽王は狂喜して全国から大量の絹を集め、引き裂いたものです。しかし、その効果は長くは続きませんでした。

そんなある日、何かの手違いで狼煙(のろし)が上がりました。「すわっ、一大事だ!」諸侯が、周の王宮に大慌てで集まりました。すると、その様子が面白かったらしく褒姒が笑ったのです。それを見た幽王は、「これだっ!」と手を打ち、有事でもないのに、ばんばん烽火をあげ、諸侯を集め始めました。

「またかよ。もうだまされないぞ」諸侯に、そんな思いが募った時です。后の座を追われた申后の一族が蛮族と手を組み、周に反乱を起こしました。驚いた幽王は、有事の狼煙を上げます。が、諸侯は、当然、本気にしません。結局幽王は殺され、西周も滅びました。

さてさて二国を滅ぼし、一国を滅亡直前まで追い込んだ妖狐は、ついに目を日本に向けます。

moss2007.shinmin.tc.edu.tw 640×349 – 褒姒一笑傾國.JPGより