第四章 時を積もる 6 (8月14日の投稿から連載している小説です)

武三郎が裾野に上ってから、既に一刻(二時間)が経過している。
(まだ、戻られぬか……)
嘉芽市は、雪の斜面に残る大きな足形を見詰めながら、顎を指先でなぞった。
足跡は、裾野の頂に向け、ぽつぽつと続いており、途中から林の中に消えている。
(それにしても遅い。もしや、武三郎様までもが、神隠しに遭われたのでは?)
嘉芽市の心に、不安と怖れが、水に落とした墨滴の如く拡がった。
村人どもの間からも、「おっきなお侍さんも戻れまい」との声が、ぼそぼそと聞こえ始めている。
もし、このまま武三郎が帰還しなければ、水神の祟りは、決定的な事実となって、村人の脳髄に刻まれる。嘉芽市は、断固として、最悪の事態への展開を阻止しなければならなかった。
そこで、平静を装い、自らも捜索への参加を仄(ほの)めかす。
「どれ、儂も祠に上がって、武三郎様と一緒に捜すとしよう」
本音を言えば、嘉芽市も怖い。だが、怯むわけにはいかなかった。
細かな雪が、びっしりと落ち始めた。村人どもの頭と肩が、あっという間に白くなる。
はっきりと見えていた山形山の頂が、雪の幕に閉ざされ、視界から消えていた。
「ん?」嘉芽市は、物音に気付き、すっと耳を澄ます。
降雪のさわさわとした響きの中に、ざざっざざっと、何かが裾野を滑り落ちる音が、はっきりと聞こえてきた。
すると、木々の間から、武三郎の巨体がぽっかりと姿を見せた。村人の間から、「おおっ」との喚声が上がる。
武三郎は、右脚をぎゅっと伸ばし、踵で雪に乗っている。左膝は曲げて、斜面に沿わせ、平衡を取っていた。左肩に、人らしきものを担(かた)いでいる。
そのまま、ずるずると嘉芽市の近くに滑り降りた。大きな身体に似合わぬ身軽さだった。着地と同時に、どすんと、肩の荷を落とす。
「作おっつあん――作おっつあんじゃ!」
村人は、仰向けとなった白髪の男の周りに、わっと駆け集まった。だが、身体を揺さ振っても、目を閉じたままで返事はない。男は息絶えていた。
「水神の祟りではない。この男は、斬られておる。もう一人も同じだ。藪の中に押し込まれていた。物盗りにでも襲われたのであろう」
骸(なきがら)に縋(すが)っていた村人の一人が、怯えた声を発した。
「盗人は、祠の周りに、まだ潜んでおるのでございますか?」
「既に、どこか遠くへ逃げ失せたようだ」
言葉が終わるのを待っていたかのように、嗚咽と啜り泣きの声が、ひいひいと上がった。
嘉芽市は、武三郎の小袖の裾が、五寸ほど切れているのに気付いて、あっと声を出しそうになった。
恐る恐る武三郎の顔を覗き込むと、小さな目の中に、冷たい光が浮かんでいる。
(武三郎様は、何者かと切り結ばれておられた!)嘉芽市は直感した。
相手は野盗か? いや、それならば、「賊は斬った」と、村人を安心させるためにも、はっきり伝えられるはず。と、なれば、自ずと結論が導かれる――左京が言っていた手段を選ばぬ〝強硬派〟が、ついに動き出したのだ、と。
しかも、〝強硬派〟は、村人の恐怖心を煽るよう、効果的に刃を用いたのだった。
嘉芽市は、底深い悪知恵を感じ、総身をぶるっと震わせた。
いぜれにせよ、死者が出た事実は大きな痛手だった。遺骸の弔いを済ませ、村人の心が、ある程度の平静を取り戻すまでに数日を要するだろう。期間中の測地は棚上げとせざるを得ない。今後は、苦しい日程の遣り繰りとなる。
また、武三郎の話を、村人がどこまで信用したかは計算できなかった。表向きは沈静していても、普請で事故が頻発したり、犠牲者が出れば、祟りへの畏怖心が再燃しても何らおかしくない。
嘉芽市は、肩に積もった雪の重みをずしりと感じ、ばさばさと両手で振り払った。


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