第四章 時を積もる 10 (8月14日の投稿から連載している小説です)

「できました」
人夫から、整置完了の報告を受けた嘉芽市は、方位盤の前に敷いた板の上に片膝を衝き、《天衡の定規》を見通す。
板を敷くのは、衣が泥で汚れるのを防ぐためではない。方位盤の足元近くに直接ずかずか踏み込むと、せっかく整置した方位盤が動く場合があるからだ。
見通す先には、先の杭の上に立てた竿がある。焦り、荒ぶる気持ちを静め、呼吸を整えねばならなかった。気持ちや息の乱れが、正確な観測を妨げる。
「酉の十三歩と八十分」
嘉芽市は、《天衡の定規》から、ゆっくり目を離し、測値を読み上げた。ややあってから、帳付け役の復唱が続く。
方位盤には十二支が記され、各支は二十の目盛に分割されている。「十三歩」とは、酉から、十三目盛だけ右に回った方角を示す。「八十分」は遊標の読みである。
嘉芽市は、正反の観測を行った。正反観測とは、観測(正)が終わったら、《天衡の定規》を百八十度回転させ、再度観測(反)する方法を示す。正反の結果を平均して測値とする。
正反の観測結果を平均すれば、円盤の傾きや定規のずれを原因とする誤差を打ち消せるのである。
現代の経緯儀を用いた水平角の測定においても、正反の観測を一組(一対回)として行い、求められる測量の精度によって、二~四対回を実施するのが一般的だ。
やっと、最初の杭の方位角観測が終了した。
「よしっ、次の杭じゃ! 荷を運べ」
嘉芽市は、先の杭への移動を指示した。早くも、人夫どもの顔には、ぐったりとした疲労が浮かんでいる。
作業の要領に、なかなか人夫どもが慣れなかった。さらに、嘉芽市の苛立ちが周囲に伝わり、皆が皆、おたおたと落ち着きを失っていた。当然の如く、失敗が増え、ますます作業が滞る。
嘉芽市自身にも、睡眠不足や疲労の蓄積の影響が表に出始めていた。定規を覗く目が、時に眩み、蟀谷(こめかみ)を何度も指で挟んだ。
思うように人夫が動かず、嘉芽市自身の身体すら思い通りに動かない。焦燥は増幅するばかりだ。
人夫どもが、あからさまな不満を態度に見せるようになり、両者の間には、不穏な空気まで流れ始めていた。
そこに、ぼたぼたと、締まりのない音を立てて、霙混じりの雨が落ち始めた。
「もう無理でござる」
武三郎が、雲行きを見上げながら口を開く。毅然とした響きを帯びた声だった。だが、嘉芽市には、建設的な助言よりも、批判に聞こえた。
「いや、まだでございます。日が足りなくなりまする」
武三郎からも見放された気になった。逆に片意地になって、作業の続行に縋り付こうとする。
すでに、周介や清助の姿はなかった。嘉芽市の迷走ぶりに呆れ返って帰ったのか?
情けなさと悔しさ、さらには、孤立感がじわっと押し寄せ、両目の端から涙が滲むのを感じる。
「嘉芽市殿」武三郎に、太い声で二度押しされ、さすがに嘉芽市の気持ちは揺れた。
氷雨が、どうと勢いを増した。人夫どもは、次々に持ち場を離れ、退避を始めている。
雨滴が、方位盤をばちばちと叩くに及んで、ついに、作業完了への執着に引導を渡す。散々たる気持ちで作業を打ち切った。
――四半刻の後、人気の消えた現場で、嘉芽市は、がくりと頭を垂れていた。首筋を冷たい雨水が伝い流れて行く。苦い汁が、口中に満ちていた。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です