第六章 甲州流土木法 4 (8月14日の投稿から連載している小説です)

老石工の説明を聞いても納得できなかったが、さりとて同じ場所に地蔵の如く居座り続けることもできない。
嘉芽市は、飯場の前を去ろうとした。
と、その時、彼の女が、再び飯場から姿を顕した。
三日月形の目の中で、黒々と瞳が輝いている。丸みを帯びた小鼻、大きめの耳、両側が綺麗に切れ上がった唇。埃にまみれ、以前より頬も痩けているが、女はサキとしか思えなかった。
「お、おぬしはサキではないのか?」
女は、おずおずと頭を下げた。単に、普請の主導者に対する儀礼を示した動きだった。
「サキであろう?」
譫言のように同じ言葉を繰り返した。動悸は高まるばかり、胸は焼けるように熱くなっている。
ところが、女は、山形の眉を不審げに歪め、首を傾げた。
「お人違いをなされておいででは? 手前は、スヨと申しまするが」
そっけなく、慇懃な答を返す。
だが、鼻に掛かった声や話っぷりまでが、サキと同じに聞こえた。
嘉芽市は、躍起になって、女に問い掛ける。
「サキ、何故、斯様なことを申す? 儂を嫌いになったのか?」
「何と申されましても、手前には覚えがございませぬ」
女は、頭をさっと下げた。右手で襟元を手繰り寄せ、腰を引くと、嘉芽市の横を擦り抜ける。
嘉芽市は、びりびりと脳幹が痺れるのを感じた。
擦れ違った時に、汗臭さに混じり、忘れようにも忘れられない甘い体臭が香ったのだ。
女を追い、左手首を強く掴む。手首のか細さ、掴んだ時の軟らかな感触――女をサキと決定づける材料が、さらに積み重なる。
「何故、しらばっくれる?」
女は、厳しい目線で見上げ、唇を固く結んだ。嘉芽市の手を振り解こうと、激しく肘を振り回す。
「お放し下さいっ!」
厳しい反抗に、思わず握力を緩めた。女は、これ幸いと、手を振り解き、「失礼をいたしまする」と、言い残すと、短い歩幅で駆け去った。
嘉芽市は、右手で宙を掴んだまま、茫然として、小さくなっていく背中を眺めていた。


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