第六章 甲州流土木法 12 (8月14日の投稿から連載している小説です)

「ただいま戻りましてございます」
翌朝。普請現場に、様子を見に行かせた下男が帰って来た。
「申し難うござりまするが、誰の姿も見えませんで」
「やはり、そうか」
予測はしていたが、実際に耳にすると、挫折感が増した。
「鍛冶の音だけが聞こえましてございまする」
どすの利いた小鍛冶の親分の顔を思い浮かべた。
もともと、あの男は祟り話を気にしていなかった。どうせ金稼ぎが目的だ。さっぱり使う当てがない鑿でも、造っていれば日当になる――と、高を括っているに違いない。
「もうよい、下がれ」
嘉芽市は、下男に命じると、畳の上に仰向けに引っくり返った。火事後に建て直したばかりの母屋は、材木の匂いが鼻孔に痛いほど強く香る。
「もう無理じゃ。先生や御代官様、武三郎様には、飛んでもない御迷惑をお掛けした。なんて惨めな運命(さだめ)なのじゃ」
下男の足音が遠ざかると、声を出して嗚咽し、何度も蛆のように身を捩った。
老石工の哀れな死に様が脳裏に蘇った。悔恨と罪悪感、さらには喪失の悲嘆が、これでもかと、胸を痛めつける。
「あのう……御客様が参っておられまするが」
破滅的な思考は、下男の声に妨げられた。取り乱した声を聞かれたか? と、泡を食う。
「どなたじゃ?」
「左京様の御使いと、申しておられます」
玄関に出向くと、見慣れぬ若侍が立っており、「左京様からの書状である」と、封書を突き出した。
嘉芽市は、拝受し、気忙しく開く。
書の内容は、前回と同様に、嘉芽市の翻意を促そうとするものだった。
左京ならば、今の嘉芽市の心境に共感してくれるかもしれない。嘉芽市は、無性に、左京に会いたくなった。
「畏れながら、左京様に御目通り致したく存じまするが」
若侍は、訝しげな表情を、一瞬ちらっと浮かべた。
「左京様は、御身を隠されておる。謁見なされるかどうかをお訊きせねばならぬ。一刻ほど頂きたい。御返事を携えて参ろう」
若侍は、袴の裾を翻し去って行った。
一刻の間、首を長くして待ち侘びていると、先の若侍が戻って来た。
「左京様も、其処もととの接見をお望みである。これから拙者が案内を致す」
「有り難き幸せに存じまする」
嘉芽市は、目の前に左京がいるかのように、平身低頭した。
外に出ると、ちらちらと雪が舞っていた。空は濃い鉛色の雲で覆われている。午前なのに、日暮れを思わせる暗さだ。
先を進む若侍は、時に振り返り、また、周囲に注意を配りながら歩いている。〝強硬派〟に尾行されてはまずい――と、思っているのだろう。
やがて、田熊の外れに、ぽつんと立つ百姓家の前を、通り掛かった。すると、中から、予告なしに周介が出て来たではないか。本日は回診の日だったようである。
嘉芽市は、狼狽え、顔を慌てて隠す。老石工の事故死の報せは、周介の耳にも入っているはずだった。顔全体が、火が点いたように熱くなる。
顔を隠し、逃げるように前を通り過ぎたが、周介には見破られているに違いない。


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