第六章 甲州流土木法 11 (8月14日の投稿から連載している小説です)

「大丈夫でござるか?」
耳元に呼び掛ける声を聞いて、鬼の手の主が、武三郎であったのを知った。
水蒸気の充満した暗い坑内から、陽の差す外界に引き出された。蹌踉めきながら後退し、そのまま尻を地面に落とす。
何度も、思いっきり息を吸い込んでは、はーっと吐き出した。
混濁していた意識が徐々に戻って来ると、老石工の安否に思いが至る。
「あの石工は?」
武三郎は無言で目を瞑り、首を左右に振った。
嘉芽市は、くらくらする頭で、立ち上がる。たった今、己が引き摺り出されたばかりの暗い空間に、再び駆け入ろうとした。
だが、坑口からは、相も変わらず、激しく湯気が吐き出されている。もはや、老人の落命は決定的だった。隧道に突入する気力も体力も失せて行くのを感じた。

半刻の後、ようやく湯気の流出が完全に止まった。二人の人夫が恐る恐る坑内に入って行く。ややあってから、両手をだらりと下げた老人の骸を抱えて出て来た。
「権おっつあんよお、死んだらいけんが」
地面に下ろされた老人の身体に、一人の若い石工が泣きながら飛びついた。激しく揺さ振るが、頭が左右に力なく揺れるだけだった。
嘉芽市は、為す術もなく立ち尽くしていた。現場における唯一の味方を、自らの傲慢な判断で失ってしまったのである。
しかも、普請を開始して以来、初めて発生した死亡事故だった。人夫どもの動揺は、想像して余りある。
嘉芽市に対する信頼の喪失、あるいは、「権おっつあんは水神様に足を掴まれたんじゃ。やはり、この普請は祟られておるで」との虚言――。
どちらが理由になろうと関係なかった。何れにせよ、人夫の心は、一人残らず、普請の現場から離反するだろう。
「先生や武三郎様の御忠告を聞いておれば良かったのじゃ」などと、今更のように反省したところで、取り返しが付かない。
嘉芽市は、どす黒い深淵に向かって、どこまでも落下していくような絶望感を味わっていた。


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