第六章 甲州流土木法 10 (8月14日の投稿から連載している小説です)

嘉芽市は人夫どもに、北坑口への移動を命じた。
北に回ってからの作業も、順調に進んだ。着火の音が響いてから、先程より時間を要したものの、火付け役の老人は、無事に戻って来た。
南とは逆に、北からの隧道は、傾斜が下方に向かっている。従って、坑口に戻る際には上り勾配となり、どうしても時間が余分に必要となるのだ。
坑口から出たばかりの老人は、息が苦しそうだった。しかし、気丈に振る舞い、他の人夫に、気勢を付けている。
四半刻が経過した。準備した水桶を持った人夫どもが、坑口の前に並ぶ。老人も、まだ息を弾ませながらも、五人の最後尾に並んでいた。
「そりゃ行くで、こりゃ走れ」
人夫どもは、掛け声を上げ、水桶を抱えて、次々と坑口に入っていく。
作業を見ながら、嘉芽市は、翌日からの展開に思いを巡らせていた。
「焼き落とし」が、実用に耐える技術だと実証できた。ただ、効果が岩二~三寸の厚みに限られる。今後は、繰り返し、「焼き落とし」を用いねばならないだろう。
そのためには、方法の改善も必要だった。特に、水桶を持った人夫どもが、進入時の熱さを厭う可能性があった。
人夫どもに、火事装束のような厚みのある衣を羽織らせ、上から水を浴びさせれば、熱さも防げるのでは? ――頭に浮かんだ妙案に、頬は、自然と綻んだ。
人夫どもが、次々と坑口から出て来た。皆、苦しそうに顔を歪めている。
「湯気が追って来てなあ。敵わなんだぞ」
人夫同士が話し合っている。水蒸気は空気よりも軽い。坑道の帰路が、上りの傾斜となっているため、湯気に追い掛けられながらの帰還となるのだった。
「お、おい、一人足りぬぞ。どうしたのじゃ?」
嘉芽市はぞくっとした。件の老人の姿が見えぬのだ。
人夫どもに問うてみるが、皆、首を捻るばかりだ。水蒸気から逃れるために必死で、周りに気を配る余裕はなかったらしい。
坑口からは、まだかなりの勢いで水蒸気が噴き出している。
危機感が胸を突き上げた。今後の策を考えていた暢気な時間が、ずいぶん昔の出来事のように思える。
「中に捜しに戻るのじゃ!」
嘉芽市は、怒鳴り散らすが、人夫どもは怖れ、委細、動こうとはしない。
「ええいっ! 儂が入るっ!」
業を煮やした嘉芽市は、自ら、坑口に駆け込んだ。
凄まじいばかりの湯気が充満していた。吸い込めば、身体が内部から焼けそうなほどの熱を帯びている。
息を止めたまま、遮二無二、進もうとする。老石工の身に異変があれば、普請に破滅的な影響が及ぶ。這いずってでも、救い出さねばならなかった。
両腕で、もうもうと煙る湯気を掻き分けながら進んだ。息を継がずに、身体を激しく動かしていれば、たちまち苦しくなる。頑なに呼吸を拒んでいるうちに、ついには気が遠くなり始めた。
朦朧とした意識の中で、後ろの襟首を、鬼の手で捕まれた感覚を覚える。地獄に連れ去られるのだ――と、妙に観念した。
が、巨大な手は、奈落ではなく、坑口に向かって、ぐいぐい嘉芽市を引き摺って行った。


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