第八章 亀、走れ! 8 (8月14日の投稿から連載している小説です)

嘉芽市は、サキの手を強く握り、ぐいぐいと引っ張った。小振りな手の造りを、掌中に感じながら。
膝よりも嵩を上げた水が、足の運びを鈍らせた。早く進もうと藻掻けば藻掻くほど、泥水が腿に絡み、抵抗が増す。忽ちにして、両足が鉛の如く重くなった。
進みは捗らず、たかだか、三十間にも満たない行程が、百里にも千里にも感じられた。
焦りと呼吸の苦しさ故に、胸の芯が焼けるように熱くなる。
「足を止め、このまま水の中に倒れ伏したら、どれほど楽だろうか?」
誘惑が、幾度も心を過ぎった。
それでも、暗闇の中に小さく薄ぼんやりと見える坑口を目指し、無我夢中で進む。
ようやく、南側坑口が、等身大の大きさになった。
途端に、背後で、どうっと轟音が響く。ついに、土嚢が崩れ去り、大水が隧道に流れ込んで来た。
嘉芽市は、坑口を出ると、サキの手を、一旦そこで離した。坑口の脇をよじ登り、次いで、サキを引っ張り上げようとする。
手を結ぼうとした時だった。坑口から、猛烈な勢いで水が迸り出た。激流は、瞬く間もなく、サキの身体を飲み込む。
「離すものか!」
頭から水を浴びながら、手を伸ばし、必死に、華奢な手首を掴んだ。
ところが、噴流の力に対し、嘉芽市は、あまりに微力だった。
二人の絆は脆くも断ち切られ、サキの顔と身体は、濁流に揉まれながら、沈んで行く。
「サ、サキ……」
嘉芽市は、豪流の中に手を翳したまま、へたり込んだ。
目の前で起こった出来事が、咄嗟には信じられない。
己の手から、サキの手首が、ぬるっと抜けた時の感触を思い出すと、ぞっとするような絶望感に襲われ、身体中に震えが走った。
「嘉芽市様あ! そこ、そこにっ!」
人夫の声に、半ば放心状態でいた嘉芽市は、はっと顔を上げた。
すると、サキの身体が、嘉芽市から十間ほど下った辺りで、横倒しのまま、浮き上がっているではないか!
「水神の仕業か?」
目を疑いながらも、全力で下流に走った。サキに追いつき、身体を抱き留め、水流から掬い上げる。
すると、サキを支えていた鬼の手が現れた。まるで、蓮の花が、泥から突き出ているように見える。
「た、武三郎様あ!」
嘉芽市は、鬼の手の持ち主の名を呼ぶ。
が、嘉芽市がサキを確保すると、役割を済まして安心したように水流に消えて行った。
嘉芽市は、呆然と見送る他はなかった。
次々と怒濤に揉まれ、人や物が、ぐるぐると渦を巻きながら流されて行く。
激しい水流を見ながら、サキの上体を強く抱き締めた。
ぐっしょり濡れ、冷たく、ごちごちに固まっていたサキの身体が、徐々に和らいで行った。


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