第八章 亀、走れ! 3 (8月14日の投稿から連載している小説です)

嘉芽市は、北側の坑口に到着した。
すぐ横を流れる川から、地鳴りを思わせる激流の音が響いている。土嚢を今にも乗り越えんと時宜を窺う水が、ぴしゃりぴしゃりと不気味な音を立てていた。
南側と同様に測地を始める。もちろん周囲は真っ暗だ。提灯の灯りを頼りに、声を掛け合い、作業を続ける。
再び、強い雨が落ち始めた。方位盤がぐっしょりと濡れて行くが、今は、そんな些事に構っている場合ではない。
泥を踏む濁った足音、雨水に濡れた衣が擦れる音、測値を読み上げる鋭い声――人夫どもは、刻々と迫る危険にも、怯む態度を些かも見せなかった。てきぱきと測地が進んで行く。
「おっ、違う。ずれておる」
嘉芽市は、興奮で声を上ずらせた。声と一緒に吹き出た息が、白い煙となって雨の中に消えて行く。
基準杭は、「引照点」から導かれる位置になかった。嘉芽市が推測した通りの状況が、北側の基準杭に発生していたのである。
嘉芽市は、「引照点」から求めた位置に、新たに杭を打たせた。次いで、基準杭と新たな杭との位置関係を、方位盤と間竿で測定する。
「武三郎様、二尺五寸も、ずれておりまする」
二尺五寸は、大きな差だ。普通であれば、坑内測地の際に、杭の位置の異常に気付いても不思議ではない。が、巧妙な〝強硬派〟の手際にしてやられたのだった。
「なんと小賢しい手を……」
武三郎も、〝強硬派〟の手口のしたたかさに、怒りを通り越し、唖然としている。
「よしっ、切羽に入るぞ」嘉芽市は、人夫どもに命じた。
湿り気を帯び始めた隧道の地面を蹴りながら、嘉芽市は、併走する武三郎に声を向ける。
「偽の基準杭から真の基準杭に向けての方位角は、凡そ三十度でございました」
「ふむ。杭の間の間尺が二尺五寸となれば、杭は、真の位置から二尺二寸近くも後退しておった――ということでござるな。これでは、予定通りに、穴が出逢わなかったのも当然でござる」
武三郎は、すかさず答えた。正弦、余弦の値を諳んじているらしく、暗算も速い。
「左様でございまする。ただ、当初、身共が積もった位置よりも、既に一尺五寸以上掘り進んでおりまする。しからば、あと一尺も掘り進まぬうちに、隧道は出逢うものと思いまする」
「掘削する位置も、東に一尺三寸ほど、ずらさねばならぬのでは?」
「いえ、東西のずれは、大きな問題ではありませぬ。身共は、設計に当たり、一尺半の塵を見込んでおりまする。一尺半に、此度の一尺三寸を加えても、三尺足らず。隧道の幅が六尺ありますれば、特段の手を講じずとも、隧道は落ち合う算用にてございまする」
掘削面に着くと、石工どもが、なかなか貫通できないため、げんなりとして、手を休めていた。
嘉芽市は、「あと、ほんの少しじゃ」と、石工どもを励まし、さらに掘り進むよう指示した。
すると、再び高まった槌音に同調するかのように、隧道内に、どやどやと足音が響いた。
嘉芽市は、役人どもが纏まって戻って来る理由を想像してみた。が、これと言って、思い当たる節はない。
ちゃきっと、鯉口を切る音が聞こえた。武三郎が、顔を引き締め、身構えている。嘉芽市は、只ならぬ事態を嗅ぎ取り、身を引き攣らせた。
やがて、頼りない蝋燭の光の中に、侵入者の姿が次々と顕れた。
全部で八人の男どもが姿を見せた。皆、黒覆面に顔を包み、太刀を抜き払っている。


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