第五章 普請始まる 8 (8月14日の投稿から連載している小説です)

武三郎は、清助に帰還した旨を伝えるため、立ち去った。
その日の夕刻。仕事に一段落付けた嘉芽市が、屋敷に戻ろうとした矢先、何者かに呼び止められた。
人夫に命じ、提灯を向けさせると、ぼてっとした小男の姿が、闇の中に浮かび上がった。
「弥十郎……!」
心が、ざわっと荒立った。顔を見るのは、洪水の直後に罵倒されて以来だ。
弥十郎は、この日も喧嘩腰で絡んで来た。
「わりゃあ、また、性懲りもなく、水神様を怒らせるんか?」
「どういう意味じゃ? ことと次第によっては、許さぬぞ」
弥十郎は、嘉芽市の言葉には取り合わず、周りにいた人夫に向けて、声を高めた。
「皆の衆よ。よう聞け。この嘉芽市はのう、水神様に、とことん嫌われとるんじゃあ。この者(もん)の遣ること為すこと全てが、水神様のお怒りを買うんじゃ」
「黙れ、弥十郎! 何を根拠に出鱈目(でたらめ)を申すか!」
憤慨の声を聞いた弥十郎は、小馬鹿にした笑いを漏らした。
「まさか忘れたわけではあるまいな。去年の春の大水を」
苦い悔恨を交えた忌まわしい記憶が、嘉芽市の中で、生々しく蘇る。
「あれほどの水が来た例は、これまで一度としてなかった。理由は、はっきりしておる。こやつが堰を拵えたからじゃ。皆がどれほど酷い目に遭うたか。あれこそが動かぬ証拠」
人夫どもの間に、只ならぬ動揺が走り抜けるのを感じた。今すぐにでも、弥十郎の口に拳を突っ込み、塞いでしまいたい。
弥十郎は、ますます調子に乗った声を発する。
「この普請が始まってから妖し火が舞い、二度までも飯場が燃えた――と、聞いたぞ。鑿も丸ごと消えてなくなったらしいのう。何もかも水神様が御趣意の顕れじゃ」
「妖し火の話なんぞ、聞いたこともないぞ。根も葉もない作り話をするでない! それに、水神様が鑿泥棒とは笑止千万! 水神様を穢しておるのは貴様であろうが」
嘉芽市は、弥三郎の付け火を、懸命に消して回る。
だが、人夫どもの間からは「妖し火」や「水神様」の言葉が、彼方此方から漏れ聞こえてきた。
「皆の者よ。嘉芽市に従えば、水神様の罰が当たると思えっ」
弥十郎は、そう言い捨てると、引き摺るような足音を立て離れていった。遠離る足音が運気の逃げる予兆の響きに聞こえる。
同時に、疑問を感じた。以前の弥十郎は、サキを執拗に追い回すなど、粘着質の性格だったが、表立って衆人を相手に演説をぶるような男ではなかった。


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