第五章 普請始まる 4 (8月14日の投稿から連載している小説です)

三月に入った。嘉芽市は、北側の坑口前に立ち、山形山の裾野を物憂げな気持ちで見上げている。
岩肌で覆われた斜面には、木々が、ぼつぼつと点在するだけだ。岩の消炭色(けしずみいろ)に圧倒され、僅かな新緑の色は、薄く褪せて見える。
普請の進捗は、相変わらず、はかばかしくなかった。石工は作業に慣れ、開始時とは雲泥の手際で掘削をしている。だが、未だに南北両側を合計しても、四間に足りず、計画の三割にも至っていなかった。
気持ちを鬱屈させている原因は、もう一つあった。人夫どもが、作業に熟練する時期を待っていたかのように、武三郎がふっつりと姿を消したのだ。
武三郎は、嘉芽市の相談相手だけでなく、人夫の技能指導係や陣屋との繋ぎ役としても動いていた。言わば嘉芽市にとって、物心両面での支えだった。
慌ただしい足音が近付いてきた。意識を現実に引き戻す。
「大変でございます」
駆け寄った人夫の声はひどく狼狽していた。激しく息を乱している。
「落ち着いて、子細を申せ」
嘉芽市から諭され、人夫は二、三度すーはー深呼吸して、息を整えた。
「石工が、切れなくなった鑿を交換しようと、鍛冶場に参りました。すると、作り置いた鑿が、一本も残らず、消えておったのでございます」
嘉芽市は、横から頭を殴られたような衝撃を受けた。
鑿は、掘削に不可欠な道具だ。切羽で働く石工に、常に切れ味のよい鑿を供給する体制の確保は、普請の進捗上、極めて重要な条件だった。普請がまた遅れる。
嘉芽市の中で、怒りが弾けた。これまで我慢を重ね、抑え付けてきた苛立ちを噴き出してしまう。
荒々しい口調で、人夫を問い質した。
「鑿を盗んだ不届き者を、誰か見ておらぬのか?」
「い、いえ……ございませぬ」
嘉芽市の只ならぬ剣幕に、人夫は顔を青褪め、後退りながら、声を震わせた。
いよいよ〝強硬派〟が、本格的に動き出したようだ。鑿を攻撃の標的にするところが、過去の手口と相通ずるものを感じさせる。
だが、祠と杭の事件以降は、昼夜を問わず、陣屋の役人が両坑口の周囲に立つようになった。外部から入り込んで、盗み出す行為は難しい。ならば内部の者の仕業なのか?
鍛冶場に到着すると、石工や役夫どもが、鍛冶場の前に集められていた。陣屋の役人が、人夫ども一人一人に当たって、盗難を目撃した者がいないか、聞き質している。
尋問を終えた人夫どもは、ざわざわと言葉を交わしながら、鍛冶場の中を覗き込んでいた。
鍛冶場は、丸太の柱を立てた上に板屋根を載せ、周囲を板壁で雑に覆っただけの簡易な作りだった。妻の上部に穿った窓や、壁の隙間から白い煙が立ち上っている。
鍛冶場の中からは、ぎんぎん、と、地金を鍛える音が響いている。小鍛冶どもが、突貫で、新たな鑿を製造しているのだ。
武三郎の意見を取り入れ、四人の小鍛冶を雇った選択は正しかった。が、岩盤が硬いため、鑿の痛みが著しい。小鍛冶どもは、休む間もなかった。鍛冶場から不満の声が出ている――と聞いていた。
鑿の盗難により、小鍛冶どもには、当分の間、いっそうの負担が掛かる。ために、鉄を打つ音には、不平不満を籠めたような、猛々しい響きを感じた。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です