第二章藩命下る 7

「武三郎様、裾野を上ってみましょう」
嘉芽市は、武三郎に、調査場所の移動を申し出た。じっとしていると、心の隅で動き始めた好奇心に引き摺られ、武三郎にあれこれと問いをぶつけてしまいそうだった。
武三郎の新鮮な返答が、嘉芽市の探求心をさらに呼び覚ましてしまう――そんな循環が、堪らなく忌まわしく思える。
武三郎は声を出さず、こくっと頷いただけだった。
嘉芽市は、裾野を上り始める。隧道の道筋に沿って、南から北に踏破するつもりだった。
上りの傾斜は、ことさらに急だ。木の幹を掴み、腕の力も使って、ぐいと身体を持ち上げながら進む。
嘉芽市は、一歩一歩、足を踏ん張った時の地べたの感触を、頭に刻み込んでいった。が、先程、断面に触れた際に感じた、脆さ、柔らかさを覆えす感触は、微塵も得られなかった。
三丈ほど上っては、立ち止まり、手や木ぎれで地面を掘り起こし、地質を確かめ、懐紙に書き込む。岩が露頭している所があれば、必ず触りに行き、岩質や風化の度合いも確認した。
生え繁る木で、展望が遮られていた。裾野の頂点までは、さほどの距離がないのにも拘わらず、坂がいつまでも続くように思えた。
武三郎は、息一つ乱さずに、巨体をぐいぐいと持ち上げて進む。身体を躍動させるたびに、ばっと広がる襟の間から、胸の肉塊が盛り上がった。
裾野を上りきると、密生していた藪が、すっと途切れ、十坪ほどの広さの平地に出た。 平地の東寄りに、古びた小祠(しょうし)が、ぽつんと立っていた。切妻屋根の下に厨子があり、観音開きの戸はぴったりと閉じられている。
屋根や戸の前の祭壇には、枯葉が何枚か載っているものの、塵や埃は見えなかった。時折は人の手が入っているらしい。
「そうか――そうじゃった」
嘉芽市は、サキから以前に聞かされた水神の話を思い出した。
武三郎が嘉芽市の顔を、じっと見ている。嘉芽市の独り言の意味を掴みかねているらしかった。
「武三郎様、この小堂は、堀坂の百姓どもが、加茂川の水神様を祀っている祠です。春になると、水神様は、ここから田圃に下りて来ると言われております」
嘉芽市の声を聞きながら、武三郎は意外な素早さで、すたすたと祠に近づき、観音開きに手を掛けようとしている。
嘉芽市は、慌てて武三郎を止めた。
「武三郎様、お待ち下さい! 開けてはなりませぬ」
武三郎が手を引っ込め、振り返った。嘉芽市は、続けて口を動かす。
「堀坂の者でも、祠の戸には手を触れない――と、聞いております。開けば禍があるとか……。厨子の中には、岩が一つぽつんと置いてあるだけとか、仏の像が安置されているとか、いろいろな噂はありますが、実のところ、祟りを怖れ、誰も中を見た者はおりませぬ」
嘉芽市の説明を後押しするように、時ならぬ風がざわっと吹き、ばらばらと落ち葉を頭の上から降らせた。
武三郎は、すっと、半歩、祠から足を引いた。不穏な気配を感じたのか、左手を太刀の鐔に添えている。
祠からは、周囲の山々を見渡せた。切れ目なく続く稜線が、蒼く晴れた空に、くっきりと輪郭を刻んでいる。夏を思わせる力感のある雲が、稜線の向こう側から、もりもりと湧き起こっていた。
祠の西側に立つ嘉芽市は、稜線を目で追ううちに、那岐山頂から滝山、瓜ヶ山、山形山の頂、さらに祠までが、ほぼ一直線に繋がっている事実に気づいた。
直線は、山のみならず周囲の空気までも、鋭い刃の如く、ばっさり左右に切り分けているように見える。
嘉芽市は、特に意図もなく、祠を背にした。つまり、直線が、祠を通り越した延長線上を見通すように身体を向けたのだ。
祠から延長した線は、裾野の端っこ――すなわち、鼈の口先に繋がっていた。忘れようにも忘れられない――堰決壊時に嘉芽市がいた岩山の辺りである。
嘉芽市は、何者かの手で、岩山の周囲に誘(いざな)われている気がして、足を竦ませた。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です