第二章 藩命下る9

行灯(あんどん)の灯りが、驚いたように揺らいだ。左京の口から、またも、思いも掛けない言葉が飛び出していた。
「実は、此度の普請は、御公儀の命によるものなのです」
嘉芽市は息を呑んだ。唸り声を重ねながら、左京に訊ねる。
「何故、御公儀が、土浦の飛び領地に隧道を……?」
「まずは、大樹様(徳川家斉)のお話から、始めねばなりません」
左京は、涼やかな瞳で嘉芽市の目を捉えながら言を繋いだ。
「大樹様の御落胤が数多(あまた)おられることは、嘉芽市殿もご存知でしょう。大樹様は、毎夜、奥に入っては、お床入りを望まれる。それも、尋常ではござらぬ。夜を徹して、目合(まぐわ)いをなされるのです。大樹様の御身体を心配する御側近も少なくありません」
「は、はあ」急に将軍の性生活の話題となり、嘉芽市は、おたおたして、返事の仕方に四苦八苦した。
「何故、そこまで大樹様が、女性(にょしょう)との夜通しの交わりに御執心されるのか? それは、眠りに落ちるのを怖(お)じ恐れておいでだからです」
「御大樹様が、眠ってはならぬ理由が、あるのでございますか?」
嘉芽市の問いを受けた左京は、将軍の閨房(けいぼう)を覗き見るように、すうっと目を細めた。
「大樹様は、夢を怖れておいでです。夢から逃れるためには、眠らぬか、くたくたに疲れ切り、夢を見ぬほどの深い眠りに落ちる他はありませぬ。そこで、夜毎、女人との交わりに、時と精を使い尽くされるのです」
嘉芽市は、好奇心を刺激された。どうでも先を聞かずにはいられなくなる。
「御大樹様が畏怖(いふ)なされる夢とは、如何なる夢なのでございますか?」
「先代の御大樹・浚明院(しゅんめいいん)様(徳川家治)の御嫡男・孝恭院(こうきょういん)様(家基)が、怨霊となって出てくる夢です」
「怨霊とは、何かしらの怨念が生み出すものと存じておりまするが……?」
嘉芽市から問われた左京は、滑りの良い舌捌(したさばき)きから、重々しい物言いへと、口調を一変させた。細い眉を中央に寄せている。
「孝恭院様は、大樹様の御尊父・一橋穆翁様(治済)に、毒を盛られたのです。浚明院様には、孝恭院様以外に男子がなく、かつ、御三卿の当主に男子がいたのは一橋家のみでした。そこで、「何としても、我が子豊千代(家斉)を征夷大将軍に」との執念で凝り固まった一橋穆翁様が、孝恭院様さえ亡き者とすれば、野望達成は自明の理――と、蛮行に及んだのです」
嘉芽市は大唾を飲み込んだ。将軍の席を争う血生臭い顛末(てんまつ)話は、口外禁止の極秘事項に違いない。当然、嘉芽市には、受け止めかねる内容だった。
「聞かなかったほうが、良かったかもしれぬ」
後悔の痛みが胸を衝く。秘密を聞いた結果、命が危険に晒される――そんな不安が、決して杞憂でないと思えた。
片や、嘉芽市の好奇心は制動を失っていた。次から次へと湧き起こる疑問を、そのまま放置できない。
「それで、孝恭院様が、一橋穆翁様への恨みを、御嫡男の大樹様で晴らそうと、怨霊となって夢に出るのでございますね?」
「いいえ、それだけではありません」
左京は言葉を切ると、虚空に顔を向けた。行灯が、額から鼻梁(びりょう)に向かう曲線を、柔らかく照らしている。
「大樹様は、夜毎を御寝所で過ごす腎力を保つため、膃肭臍(おっとせい)の粉や白牛酪(はくぎゅうらく)を毎日、欠かさず御愛用です。が、近年は、さすがに御加齢には勝てず、女人をお望みになるお気持ちが、とみに衰えて参られました。頭痛にも苦しまれておいでです。そこで、ついに、根本たる原因である怨霊を除霊しようと、土御門(つちみかど)神道の陰陽師(おんみょうじ)を駆り出されたのです」
「で、陰陽師は、何と申されたのでございますか?」
嘉芽市は固唾を呑んで、左京の言を待つ。
「陰陽師は、大樹様を一目見ると、驚くべき説明を始めました」
「その、内容とは?」
「何者かの手によって、孝恭院様の墓から髑髏(しゃれこうべ)が盗まれ、美作国に埋められたのが原因――と、陰陽師は申したのです。美作国の東部に、地空を真っ二つに分断する結界が通っており、結界で繋がりを絶たれた孝恭院様の髑髏と胴の骨が、お互いを恋しがって慟哭(どうこく)し、亡霊となって現れるのだ――と」
「左京様、ならば、陰陽師は、どうせよ――と?」
「もう、お分かりでは? 「髑髏を埋めた場所は探索いたしかねる。だが、隧道を掘って結界を貫いてしまえば、気が通じ、孝恭院様の亡霊は消える」と、申したのでございます」
嘉芽市の頭中に、昼間見た稜線の繋がりが、鮮烈な光景として映し出されていた。震える声で、確かめてみる。
「も、もしや、その結界とは、那岐山頂から滝山、瓜ヶ山、山形山の頂を通っているのでは?」
「ほほう、さすがです。嘉芽市殿には、お心当たりのある様子」
左右の空気までをも鋭く切り裂くかに見えた直線こそが、陰陽師が指摘した結界らしい。


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