第二章 藩命下る8

陽は沈み、空は紺青(こんじょう)に染まっている。武三郎との現地踏査を一通り終えた嘉芽市は、己の屋敷に向かっていた。
きいきい、りんりんと、蟋蟀(こおろぎ)や鈴虫どもの声が、道の両側から騒がしく聞こえている。
「決して、無理な普請ではないのじゃが……」嘉芽市は、頭に浮かんだ言葉を、そのまま口に出してみた。
隧道予定地を歩き回った結論は、武三郎が言うところの「悪い山」に落ち着いた。
「悪い山」と雖も、しょせんは、難易度の問題だ。藩が普請の費用に制限を加えないのだから、武三郎が列挙した課題――工期の長期化、必要となる資材、あるいは人夫確保の問題には、対処のしようがあるはずだった。
ところが、嘉芽市の脳裏には、如何にしても排除できない憂慮が巣くっていた。
憂慮の理由は、これから対処する難敵について、表面から見た情報だけしか得ていない点にあった。掘り進まない限り、真の姿は見られない。
言わば、強大な天地の力に、目隠しをされたまま、立ち向かわねばならない状況だ。予想だにつかない障害や危険が待ち受けている――と、考えておく必要があった。
単なる期間や経費の問題に留まらず、多数の人間を殺す惨憺たる結果となるかもしれない。
悪夢は、一度でも味わえば、じゅうぶんだった。
嘉芽市は、胸前に組んだ両腕に力を入れ、下唇に歯を擦りつけた。
「この普請、やはり受けるべきではなかった」今更ながらに思う。
土浦藩・土屋家が目的を隠蔽したままで、普請に取り組まねばならない事実が、嘉芽市の精神的な負担を、より重くしていた。
かと言って、固辞できる命でないことも分かり切っていた。
「嘉芽市様、お帰りなさいませ。お客様が、お待ちでございます」
屋敷に到着すると、出迎えた下男が、眠そうな声で報告した。
「誰であろう? 心当たりがないが……?」嘉芽市は首を傾げながら、長屋門を潜り、母屋の座敷に向かう。
気持ちを切り替えるために、頬を、ぱんと両掌で挟み込んだ。すると、日焼けの火照(ほて)りが、ひりひりと肌に滲みた。
座敷では、若い武士が胡座を掻き、嘉芽市を待っていた。年は二十五ぐらいか?
男は、嘉芽市の姿を見ると、背筋を伸ばしたまま、頭をちょこんと下げた。
「拙者、二宮左京と申します。嘉芽市殿に折り入って願いたい儀があり、参りました」
滑舌で、しかも、よく通る声だった。
嘉芽市よりも背は高そうだが、胴体は細めで、胸幅が薄かった。顔は色白で、やや面長。目鼻立ちがよく整い、顔全体から品の良さを感じさせる。
左京は、鮮やかな藍色に染めた青海波(せいかいは)紋様の小袖の下に、柿渋色の袴を、きりっと巻いていた。すっきりした着物の着こなしは、清々しい涼感を漂わせていた。
顔に見覚えはなかったが、それなりの地位にある侍である様子は直ぐに見て取れた。
嘉芽市は、座敷の敷居を跨いだところで座し、頭を深く下げる。
「中村嘉芽市にてございます。御用向きをお伺い致しまする」
「嘉芽市殿、どうか、頭を上げてください」
促されて、顔を持ち上げると、切れ長の目が、何かを訴えるように嘉芽市を捉えていた。嘉芽市は、目線の熱に打たれて、どきまぎとする。
「此度、嘉芽市殿は隧道の普請をお受けになった――と、聞き及びました」
「はい。その通りでございますが……」
左京は、二重瞼の上にある、長い睫毛をぱちぱちと動かすと、おもむろに、飛んでもない依頼事項を告げた。
「願いの儀とは――その普請を、不首尾に終わらせて欲しいのです」
「えっ? 何と……?」
嘉芽市は、己の口が、ぽかんと開けっ放しのままになっているのに気付き、急いで唇を閉じた。
「見ず知らずの者が突然かように訪ねて参ったうえに、無理難題を言われては、嘉芽市殿が混迷するのも、やむを得ないと存知ます。少々長くなりますが、是非とも拙者の話を聞いて頂きたいのです」
庄屋の息子に過ぎない嘉芽市の屋敷まで、左京はわざわざ出向いてきた。さらに、丁重な口使い、物腰で、嘉芽市に対している。
嘉芽市は、左京に好感を持たずにはいられなかった。が、非常に重要な用件が故に、左京が真摯な態度をしているのかもしれない。
嘉芽市は、背筋を伸ばし、左京の唇が動き始める時を待った。


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