第二章 藩命下る3

周介は、低く、嗄れた声で続けた。
「この度、御家老様からの命で、隧道の普請をする運びとなったのじゃ。ついては、儂に、測地から設計、さらには普請の指揮を執るよう、御代官様から、お話があっての」
周介は、口を一度おもむろに休め、清助に目を向けた。清助が視線を合わせ、こくりと頷く。
嘉芽市が来るまでの間に、周介と清助との間で交わされた同意事項をこれから告げるつもりらしかった。
「じゃがのう、儂も今年で七十二じゃ。無理の利かぬ身体となってしもうた。そこでな、儂の代わりに、亀、お前を推したのじゃ」
「えっ? はあ……」
嘉芽市は、もごもごと口籠もった。嘉芽市は、算法との関わりを完全に絶つためにやって来たのだ。これでは、思いを遂げるどころか、全く逆の結果となってしまう。
「亀、これを見よ」
横から、甲高い男の声が聞こえた。嘉芽市は声の方向に慌てて顔を向ける。
清助が、薄鼠(うすねず)の小袖の襟元から、折り畳んだ雁皮紙を引き出した。月代の額を光らせ、がさがさと、紙を畳の上に拡げる。
拡げた紙には、勝北郡の地図が記してあった。
清助は、いかにも実直な性格を窺わせるぎょろ目を瞬かせると、扇子の先を地図の中央に運んだ――山形山(やまがたさん)の西側の裾野あたりである。
山形山は、勝北郡の東を覆う山脈の一端を為す山だ。西に向け、幅の狭い裾野をにょっこりと突き出している。ちょうど、鼈(すっぽん)が首をいっぱいに伸ばし、加茂川に食らい付いた姿を思わせる地形だ。
清助の扇子は、鼈の首の根元部分をちょきんと切り落とすように、上から下に動いた。「隧道は、ここに穿つのだ」
清助は、嘉芽市を見て、まん丸の顔を恵比寿様の如く崩した。曖昧な嘉芽市の返事が、清助には、承諾の意思表示に聞こえてしまったようだった。
が、嘉芽市の胸には、吐き気に似た気色の悪い感覚が、むかむかと湧き上がってきていた。
「そ、そこは……」掠れ声で呟く。
清助の扇子の先は、他ならぬ堀坂の地にあった。しかも、隧道予定地から、西に三町ほど下ったところには、嘉芽市が、堰の崩れる瞬間を見た岩山があったのだ。
嘉芽市は、洪水以来、堀坂の近くにすら行くのを避けていた。
嘉芽市の額から、汗がぽたぽたと畳に落ちた。
隧道普請を引き受ければ、不快な記憶と焼け付くような失念の塊がいくつも転がっている地に、何度も足を運ばねばならない羽目になる。
南側の襖と障子が、がらんと開け放たれていた。三尺幅の濡縁の先に、小さく設えた庭が見える。
がっと強い風が吹き起こり、庭の右端にある秋牡丹の群落が大きくざわめいた。青紫の花と蕾が、ばさばさと左右に揺れる。
(断らねば。いよいよもって、この普請を受けるわけにはいかぬ)
はあはあと、息が乱れ荒れている。嘉芽市は、少しでも早く、はっきりと拒絶の意思を述べねばならなかった。
「せっかくのお話ではございますが、隧道の普請とは、なかなかの難工事――と、伺っておりまする。身共は若輩者であり、経験もございませぬ。どうか、他の者にお話をなされますよう、お願い申し上げます」
「いいや、亀でなければ駄目だ!」
清助の声が、決めつける語調で響いた。
「隧道の普請が困難なるは、亀の申す通りである。だが、雅兄(がけい)(周介)から算法を学んだ者は数多かれど、奥義の伝授を受けたのは亀一人。他の者に任せるわけにはいかぬ」
清助は、代官の立場にありながら、周介を心の底から敬慕し、「雅兄」と呼んで兄事(けいじ)していた。
清助から名指しされた嘉芽市は、断る手段を失った。
(ううっ、代官様の御命に抗えば、儂のみならず、父上や家内の者全員に禍が及ぶかもしれん)
ちらりと周介に視線を送ると、周介は、やんわりと目を細め、清助と嘉芽市の遣り取りを見ていた。
嘉芽市は、清助が同席した真の理由を悟った。周介は、嘉芽市が普請の請け負いを拒否する――と、予め読み、有無を言わさぬ方法を採ったのだ。
嘉芽市は、がたんと頭を垂れた。目を瞑り、震える唇をなんとか操って声を出す。
「し……承知、致しました」他の返事は思い付かなかった。


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