第二章 藩命下る2

周介の屋敷が見えてきた。
代官も待っている――と聞き、渋々腰を上げた嘉芽市だったが、今は胆を据えていた。
嘉芽市は、周介に向けて失言した上に、一言の断りもなく、勝手に交わりを絶ってしまった。長きに亘り、教えを受けた師に、恩を仇で返したに等しい。まともに考えれば、会わせる顔など、あるはずがない。
が、嘉芽市の算法への決別の意思は固かった。だとすれば、こそこそ逃げ回っているよりも、詫びる点はきちんと詫びる。その上で、師に、はっきりと絶縁の意思を告げるのであれば、むしろ格好の機会ではないか――と、考えたのだ。
代官が何のために同席するのかは判らない。だが、たとえば、嘉芽市の想像もつかない懲らしめが待っていたとしても、それはそれで、自ら望んで受けてやろう――とまで、踏ん切りを付けている。
言わば、庵の訪問を、算法を正式に捨て去る儀式と見なしたのだ。サキへの弔いにもなると思えた。
歩き始めた時には噴き出ていた汗が、炎天下を歩いてきたのも拘わらず、今はすっと退いている。
門を潜った嘉芽市は、母屋の前を左に折れ、屋敷の西端にある庵に向かった。一歩一歩に力を込め、己を鼓舞して、最後の一言の準備に、早くも懸かる。
高く枝を伸ばした木々が、庵を背後から包み抱くように、鬱蒼と立っていた。木漏れ日が、漆喰壁の表面で、くらくらと揺れ動いている。
入母屋造りの屋根に葺いた茅は、所々に苔が生え、くすんだ斑模様を見せていた。二、三本の草が、茅の間から顔を突き出している。
庵は、数年前、周介が医業を次男の吾市に譲り、隠居した時に建てた――と、聞いていた。
嘉芽市は、庵の東側にある入口の前に立った。
庵の中から、話し声が漏れ聞こえる。内容までは分からぬが、周介の声と察した途端に、嘉芽市の胸は、急にどきどきと動悸を速めた。
嘉芽市は、深呼吸を一度してから、「よしっ、行くで!」と、小さく叫んだ。
「中村嘉芽市、ただいま参上仕りました」抑えた声で告げ、庵の中に入る。
土間に踏み入ると、懐かしい匂いがふかふかと嘉芽市を包んだ。
二度と嗅ぐまい――と、思っていた匂いであったが、楽しい学びの日々を頭中に蘇らせ、気持ちを浮き立せた。サキがはしゃぎ、笑う声が聞こえ、朋友たちの議論がしゃきしゃきと耳の奥で響いている気がする。
が、愉快な幻想は、寸後には、捨て台詞を吐いて土間に飛び降りた時の、じっとりと冷たい足裏の感触に切り替わった。嘉芽市は、首をぶるぶると左右に振り、緩み掛けた気持ちをぐっと引き締める。
周介が算法を教える部屋は、庵の南側にあった。周介は今日も、慣れ親しんだ学舎で嘉芽市を待っているはずだった。
嘉芽市は、土間から板間に上がり、短い廊下の突き当りにある襖に手を当てた。胸がぐうっと熱くなってくるのを感じる。
「嘉芽市、入りまする」早口で言葉を切り、襖をかっと開いた。
上座の周介を筆頭に、右側に代官の亀田清助守尋、左には見覚えのない大柄の男が、向かい合って座っていた。
嘉芽市は、下座に、膝を揃えて腰を下ろし、低く頭を垂れる。
「先生、お久しゅうございます。失礼の数々、嘉芽市、お詫びもしようがございませぬ」
嘉芽市自身が思っていたよりも、すらすらと素直に、詫びの言葉が出た。
(さあ、次じゃ!)嘉芽市は、周介に決別の言葉を告げようとする。
ところが、嘉芽市が口を開く前に、周介から思いも寄らぬ労りの言葉が飛び出した。
「亀、如何致しておった? 随分と沙汰がなかったのう。心配しておったぞ。まあよい。頭を上げんか」
周介の声からは、暖かみこそ感じられたが、憤りは微塵も感じられなかった。
嘉芽市は、周介の心が読めぬまま、恐る恐る顔を上げる。すると、周介は、普段と変わらぬ、垂れ気味の人なつっこい目で嘉芽市を見ていた。
(どういうことじゃ? 先生は儂に御立腹されておるのではないのか?)
嘉芽市は、思いも寄らぬ周介の態度に面食らい、決別を宣言する最初の機会を逃してしまった。
皺に囲まれた口の下にある周介の平たい顎が、上下にかくかくと動いた。
「実はの、亀、折り入って、お前に頼みたい用向きがあるのじゃ」
周介は、女を思わせる細長い指を、焦茶の十徳の襟に絡ませた。大事な用件を語る際に、周介が見せる仕草だった。


第二章 藩命下る2” への2件のコメント

  1. ずうっと読ませていただいております。素晴らしいです。感服しております。
    掃除機のような吸引力があります。次は直木賞ですね。応援してます。

  2. 須郷さん
    コメントありがとうございます。
    これからもご愛読と応援、よろしくお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です