第二章 藩命下る10

藩が、隧道の目的を明らかにしない理由がわかった。また、幕府が財源を提供するゆえに、財政が困窮している土浦藩であっても、財貨に制限なしとできたわけだ。
だが、まだ決定的な疑問が残っていた。
「畏れながら、身共は、左京様を御公儀の御方だとお察し致しまする。何故、御公儀の御役人が、大樹様の御辛苦を除くための普請を不首尾にせよ――などと、申されるのでございますか?」
左京の眦が一段と熱を帯びた。行灯の光を跳ね返すが如く、ぎらぎらと輝きを帯びて見える。
「嘉芽市殿の指摘どおりです。拙者は御公儀に身を置きつつ、大樹様の御利益に反する行いを為そうとしております」
左京は、きっぱりと口を結んでから、目を瞑り、左右に頭を振った。
「大樹様の御乱心ぶりは、目を覆うばかりです。幕政を蔑(ないがし)ろにして奥に入り浸り、毎晩、酒を浴びるように飲まれます。時には、鶏を集めさせ、御足で踏み潰しては殺し、喜ばれる――と、常人とは思えぬ行いもなされます。さらに、御落胤が次々と御誕生されるため、縁組みに多大の財貨が必要となり、御公儀の財政までも揺るがせているのです」
目をかっと見開いた左京は、唇を小さく撓ませ、悲しみの色を瞳に浮かべた。
「それだけではありません。最近は、御嫡子の右大将(うだいしょう)様(家憲)との御仲がよろしくありません。右大将様が、大樹様の堕落ぶりを厳しく糾弾するからです。右大将様を嫌うがあまり、不穏な動きを始めた――との噂もあります」
嘉芽市は、ますます危険な話に顔を突っ込んでしまった――と、思った。だが、今更この期(ご)に及んで後戻りはできない。
「ままよ」とばかりに纏めの問いを発する。
「では、左京様は……?」
「拙者どもは、右大将様に危機が及ぶ前に、大樹様が征夷大将軍の座を自ら手放され、右大将様に禅譲されるよう、導きたいのです」
「それでは、大樹様の気を損なわんがために、身共に隧道普請を失敗せよ――と?」
「いかにも」左京は、しっかりと嘉芽市の目を見詰め、口を引き締めた。
嘉芽市は、指先が小さく震えているのに気づいていた。美作国の端くれにいる嘉芽市が、何と、国家の浮沈に関わりかねない立場に置かれようとしているのだ。
(大きい、余りに大き過ぎる……)嘉芽市は、掴み所のない世界に放り込まれた気がした。
「嘉芽市殿、拙者どもに力を貸して下さらぬか?」
左京は、最初に嘉芽市に向けた時と同様の熱い視線で、嘉芽市をじっと見詰めた。嘉芽市の膝に掴み掛からんばかりだ。
だが、嘉芽市は左京の懇請を撥ね突けた。
「左京様。身共にはできませぬ。土浦からの御命には、元の出所がどうあれ、理由が何にあれ、従わねばならぬのでございます。どうか、御容赦をば願いまする」畳に額を擦りつけんばかりに、頭を下げる。
が、左京も引き下がる気は微塵もないようだった。声に熱を籠め、あくまで嘉芽市を説得しようとした。
「いかにも立派なお考えです。しかし、普請の目的を、嘉芽市殿はお分かりのはず。「世のために何をすべきか」を判断の礎とするならば、進むべき道は明らかなのでは? それとも、嘉芽市殿は御自身の保身をお考えになっているのですか?」
「保身」と言われ、嘉芽市は、かっと鼻白んだ。
「この普請は、算学を学んだ尊師から推薦を受けた仕事でございます。普請に失敗すれば、先生のお顔に泥を塗る結果になりまする。身共は、先生から、数えきれぬほどの恩を受けて参りました。何卒――何卒、御勘弁をお願い申し上げまする」
左京は、頑なな嘉芽市の態度に往生したのか、俯き、ふーっと息を吐いた。
が、直ぐに、顔をきっと持ち上げると、嘉芽市に、意外な問いをぶつけてきた。
「嘉芽市殿が、師を思う気持ちはよく分かります。では、改めて伺います。たとえば、克服困難な地盤に行き当たったが故に、隧道普請が成し遂げられなかったら、どうなさるおつもりか?」
「そ、それは……」
嘉芽市は、左京に、ぐさりと矛盾を衝かれ、ぐっと口籠もった。自然の力に畏怖と不安を抱いている嘉芽市が、隧道普請の竣工を前提とするのは、確かにおかしい。


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