第二章 藩命下る1

八月も終わりに近付いていた。
「どうじゃ? 嘉芽市、抜かりはないか?」
背後から、父の宗之助が声を掛けてきた。
嘉芽市は、目の前の用事に集中しているかのように装い、父の言葉に気づかぬ振りをする。
「庄屋様、さすがは、天童とまで呼ばれた御曹司でございますなあ。俵の数を積もる早さと言い、堂々たる立ち振る舞いと言い、とても本日が初日とは思えませぬ。これで、中村家も、ますます御安泰と思し召しますじゃ」
近くに控えていた組頭が、歯の浮く台詞を吐いても、宗之助は、お世辞とは気付かない様子だ。満足げな声で、「そうじゃろう、そうじゃろう」と、相槌を打っている。
堀坂の洪水以来、嘉芽市は、周介の庵に通うのを止めた。
もともと、宗之助は、嘉芽市が算法にのめり込む様を快く思っていなかったようだ。嘉芽市の変化を大歓迎し、庄屋の仕事に駆り出したのである。
嘉芽市は、周囲の者から見れば驚くほどの早さで、任せられた仕事をてきぱきとやってのけた。
宗之助は、嘉芽市の変貌と仕事ぶりがよほど嬉しいのであろう。せっかく、嘉芽市に現場を任せたのにも拘わらず、嘉芽市の手際を見物に、母屋から、何度も、ちょろちょろと庭に出てくる。
嘉芽市は、宗之助の覇者(はしゃ)ぎっぷりを、苦々しい思いで受け止めていた。
「ふん、しょせん、算法など、この程度しか役に立たぬのじゃ」小さな声で呟く。
長屋門を潜り、荷車に乗せられた年貢米が、屋敷に、次々と持ち込まれて来ていた。
母屋の前にある広い庭の真ん中に、柱と筵屋根だけで造られた相撲の土俵を思わせる作業場がある。
作業場では、野良着姿の六人の人夫が二組に分かれ、運び込まれた玄米を、せっせと俵詰めしていた。
嘉芽市は、御納戸方(おなんどがた)の仕事を任されていた。御納戸方とは、村単位で賦課された年貢を、庄屋が集め、藩に納める業務である。
嘉芽市は、今、玄米の俵詰めに立ち会っている。量目不足がないかを確認する役割だ。
玄米は三斗七升の俵にして納められていた。美作国では、四斗の俵にするのが普通であったが、田熊を含む勝北郡は、常陸国(ひたちのくに)土浦藩の飛び領地であるため、東日本の単位を用いていたのである。
人夫どもは、箕で掬(すく)った玄米で、御座の上に置かれた一斗桝(いっとます)と一升桝(いっしょうます)を満たしては、「よいしょ」と、俵に空けていく。
嘉芽市は、ちゃんと俵に三斗七升が詰められているかを見るとともに、名寄帳(なよせちょう)に記載された名請人(本百姓)ごとの年貢米の量と、実際の俵数を突合(とつごう)させ、確認していく。
名寄帳とは、検地をもとに作成される軸帳(土地一筆ごとに、田畑の反別、石高及び年貢高を記載した帳簿)を、名請人別の年貢額に集計し直した帳簿だ。
ところで、俵詰めの量目確認は、底四寸九分四方、深さ二寸七分の桝を一升として行う。かつては、底五寸四方、深さ二寸五分の桝を一升としていたところを、幕府が行った升目の全国統一に併せ、藩も追随し、変更していた。
変更につき、村には、「桝の深さを二分増やすが、底を縦横一分づつ縮める故、升目は変わらぬ」との説明が伝えられたらしい。
が、実は、一立方分の坪数(分を単位とした容積)で比較すれば、変更前が六二五〇〇坪、変更後が六四八二七坪となり、升目が大きくなっていたのである。要するに、百姓騙しの変更だった。
ところが、異議を申し立てた百姓はいなかった。百姓が無知だったわけではない。掛け算のできる百姓もおり、損得は見極められたはずだった。
「何故、百姓どもは黙っておったのじゃ?」
かつて、宗之助から話を聞いた時、不条理を感じた嘉芽市は不思議に思ったものだ。
が、今は百姓の心境が理解できる気がする。連年の洪水を運命と甘受する堀坂の村人に重なるものを感じた――不条理を察しても、「抗っても益なし」と諦め、黙々と受け容れているのである。
要は、算法がいかに合理を主張しても、算法を上回る力が働けば、何の役にも立たない――という結論に行き当たらざるを得ない。
嘉芽市は、算法に深く関わり、無用な智を得てしまった己が堪らなく憎らしかった。
今や嘉芽市には、算法が死物にしか思えない。重荷にすら感じ、いっそのこと、全ての算法の知識を失えれば、どれほど楽か――と、本気で考える時もあった。
「ううん」と、嘉芽市の口から、思わず不機嫌な声が零れ出てしまった。人夫どもが、驚いた顔をして、作業の手を止めた。
次々と搬入される荷車が、門の辺で渋滞している。堀坂とは異なり、田熊は水害が少なく、豊穣な地だった。
真新しい俵の匂いが、つんと嘉芽市の鼻を衝いた。
秋になっていたが、日射しは強く、米を運搬する者、俵詰めする者、米倉へ運び込む者、皆が皆、汗だくだ。筵屋根が差し掛けた影の中に立つ嘉芽市ですら、汗が、額と首筋に噴き出している。
「嘉芽市様、自景堂(中村周介)様から、お迎えが参っておりまする」
下男の声を聞き、嘉芽市は、はっと我に返った。
「なんじゃと?」
嘉芽市には、周介から呼び出される理由に心当たりはない。破門をわざわざ言い渡すために呼び出すのか? それとも、破門を免じ、庵に顔を出せ――とでも誘うつもりなのか?
だが、何の用件があるにしても、嘉芽市は、二度と庵の空気を吸う気にはならなかった。
招待を拒絶しようとした嘉芽市に、下男は「御代官様も、庵でお待ちとのお話でございます」と、付け加えた。
代官の名を聞けば、嘉芽市も無視はできない。


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