第三章 南蛮流町見之術 12 (8月14日の投稿から連載している小説です)

三日後の午九ツ半(午後一時)、嘉芽市は、周介の屋敷の門前に立っていた。
朝からずっと霧雨が降り続いているが、雨具は身に着けていない。
「よしっ、行くぞ」
嘉芽市は耳朶をぎゅっと熱くなるほど摘み、気合いを入れた。
周介は、医業を次男の吾市に譲っている。しかし、かつて周介に救命された者の中には、吾市の見立てや治療では納得しない者がいた。そこで周介は、やむなく、月一回の回診日を決め、周介を神のように崇(あが)める家々を廻っていたのである。
門は開かれていた。嘉芽市は、左右に目を配ってから、さっと屋敷の中に忍び入る。
周介の屋敷は、いつも早い時間から、診察を受ける者や薬種を扱う商人などが足繁く出入りしており、賑やかだ。だが、午を境にして一刻(とき)ほどの間は、潮が引いたように閑散とする。嘉芽市は、他人目に触れぬ時間帯を選んでやって来たつもりだった。
ところが、庵に向かおうとした矢先に、母屋の横から出てきた下女と、ぱったり鉢合わせしてしまった。
「これは嘉芽市様。お久しゅうございます。自景堂様は、ただいま御不在にてございますが」
下女は、いつもと変わらぬ親しみ溢れる笑顔で挨拶した。嘉芽市が、周介との師弟関係を絶った事情など、知るはずもない。
嘉芽市は、「存じておる。儂も先生に同行いたしておるのじゃ。ついては、先生が庵にお忘れになった薬包を、行き先から取りに戻った次第じゃ」と、笑顔で取り繕う。
続いて、真顔を拵え、「ええか! 屋敷の者どもには内緒ぞ。先生がお帰りになった時も、儂が薬を取りに来た――などと、先生に言うてはならんぞ」と、付け加えた。
「はあ……」下女は、要領を得ない顔で、曖昧に頷く。嘉芽市よりも二、三歳は年上のはずだった。
「『医者が薬を忘れた』と知れては、世間の物笑いであろう。じゃから、儂は、先生から、くれぐれも他言せぬよう言い聞かされておる。分かったな」
嘉芽市は、口封じの台詞を下女に注ぎ込む。耳孔に口を寄せ、いかにも、嘉芽市と下女――二人だけの秘密だと匂わせる技巧も忘れなかった。
耳元を息で擽(くすぐ)られた下女は、肩を竦め、むずがる様子を見せた。だが、嘉芽市の口が耳から離れると、頬を赤らめ、黙ってこっくりと頷いた。

学舎に踏み入ると、壁際に山と積んだ書物が、嘉芽市を迎えた。端から順に一冊づつ取り、中を確かめていく。視線を、上下と斜めに素早く動かし、次々と丁を捲った。
明確な検索の基準があるわけではない。たまたま開いた書の内容が、心の琴線に触れて初めて、記憶の底に眠るものの実体が明らかになる――という、気の遠くなるような遣り方で作業を進めねばならなかった。
しかも、時間は二刻(とき)しかない。周介は、夕七ツ半(午後五時)には戻るはずだ。
襖も障子も閉じられている。霧雨がもたらす湿気が、庵の中に、むっと籠もっていた。
腰を下ろす心の余裕はなく、片膝衝いた姿勢で、忙しく手を動かす。ために、嘉芽市の身体は、熱を帯び、全身から汗が噴き出た。袖口で額を拭いながら、作業を続ける。
一刻半(三時間)が経過しても、「これだ!」と、感ずる記述には行き当たらなかった。
「早くせねば、早く……」嘉芽市は焦る。いつ周介が帰ってきてもおかしくない頃となっているのに、まだ半分しか書物に目を通せていない。
作業開始後しばらくは、読み終えた書を丁寧に積み戻していた。が、焦燥するほどに、扱いが乱暴となり、今は、ぽんぽんと放っている。書が畳に落ちる度に埃が舞い、古紙の黴びた匂いが香った。
すると、庵の外から、人の話し声が聞こえてきた。
「うっ、先生がお帰りになられたのか? まずい!」
嘉芽市は、ちょうど手に取っていた、一寸程の厚みの書を開きながら、慌てて立ち上がろうとする。
ところが、嘉芽市は「むん!」と唸るや、中途半端な姿勢のまま、身体の動きをぴったり止めてしまった。
書を握る指先と顎が、かくかくと震える。「ここは一時退散をせねば」などと、口では呟きつつも、五十行ほどの短い記述を、手早く、何度も何度も読み直す。
書名の部分が擦り切れ、読めない。だが、著者の名は、高森惣右衛門と読み取れる。確か蘭学者のはずである。
「これじゃ!」
件の書を、押し込むように懐に仕舞い込んだ。続いて、畳に散乱した書物を拾い上げ、大急ぎで、壁際に山を作り直す
片付けが終わるや否や、土間に飛び降り、庵の周囲の様子を窺った。幸い人影は見えない。周介は、いったん、母屋に入ったのかもしれなかった。
嘉芽市は、屋敷の門を出ると、ぬかるんだ地面に足を滑らせながら、ばたばたと走り出す。周介に姿を見られる失態は、是が非でも避けたかった。


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