第三章 南蛮流町見之術 10

武三郎は、岩を転がすような声で続けた。
「拙者は、讃岐国で、久米栄左衛門なる御方に会い申した。栄左衛門殿は、大坂で麻田流の天文歴学を学んだ御仁らしい。文化三年に、左中将様(松平頼儀(よりのり))の命を受け、高松の地図を製した――とも、申されておった」
武三郎の意図を量りかねた嘉芽市は、碌に返事もできぬまま、ただ聞くのみだった。
「拙者は栄左衛門殿に招かれ、屋敷を訪ねたのでござるが、そこで、高松の測地に用いた地平儀なるものを実見し申した」
武三郎は、地平儀の説明をどのように嘉芽市にしたらよいか、迷っている様子だった。
が、そこで嘉芽市の脇に置かれた方位盤を見付けると、太い指先で、ぬおっと指し示した。
「地平儀は、ちょうど、嘉芽市殿の横にあるものに似て、円盤を備えたものでござった」
「えっ?」嘉芽市は、座ったままで、びんと身体を跳ね上がらせた。これまでは、さしたる関心を持たずに、武三郎の話を聞いていた。が、「円盤」の一言を聞いて、いっぺんに態度を改める。
今後は、一言も聞き逃すまい――とばかりに、前のめりになり、武三郎に食らい付いて、質問を次々と浴びせた。
「武三郎様、その地平儀なるものは、もしや、方位を測るためのものではありませぬか? 大きさは如何に? どのような形をしていたのか教えて頂けませぬか?」
「嘉芽市殿の申す通りでござる。栄左衛門殿は、地平儀を、方位を積もる測器と申された。円盤の大きさは、円径にして一尺八寸。円盤の下から脚が四本出て、十文字に組んだ木の台に載り、円盤の真ん中には、一尺余りの長さの真鍮棒が立ってござった」
一尺八寸の円径は、嘉芽市の方位盤の倍だ。当然、目盛りも細かく刻まれているだろう。嘉芽市は、ごくりと唾を飲み込むと、武三郎に訊ねた。
「目――目盛りは、どのような刻みでございましたか?」
「随分と細かい目盛りでござった。栄左衛門殿は、円盤の一周を、千八十に刻んだと申された」
三百六十度を千八十で除せば、目盛りの間隔は二十分となる。《大丸》の精度には劣るが、嘉芽市が行おうとしている測地への使用には、なんら問題はなかった。加えて、讃岐の地であれば、往復しても、さほどの時を要さぬではないか!
(これじゃ!)嘉芽市は、指先が震えるほどの興奮を感じていた。ぽっぽと、顔が熱くなってくる。
どきどきと胸を高鳴らせながら、詰めとなる質問を発した。
「身共が、久米栄左衛門様から、その地平儀をお借りできるでございましょうか?」
「無理でござる」
武三郎は、ぴくりとも身体を動かさず、はっきりと断言した。
「な、何故でございますか?」嘉芽市は、掠れ声で問いを重ねる。
「地平儀の噂を聞きつけ、方々から借用の申し入れがござるが、栄左衛門殿は頑として応じてはござらぬ。何分にも精密な測器故、他人に扱わせ、狂いが生じては困る――というのが理由でござる」
嘉芽市は、持ち上げていた尻を、どすんと落とした。首の力もがっくり萎えた。一度は大きな期待を寄せただけに、落胆の度合いは大きかった。高まった動悸が、直ぐには収まらず、ばくばくと虚しい空打ちを繰り返している。
武三郎は、嘉芽市の心境には委細構わず、話を続けている。
「栄左衛門殿は、地平儀が随分と御自慢の様子。地平儀を撫でながら、「この測器で二分まで積もれる」と、申されたのでござる」
嘉芽市は、垂れていた顔をひょこっと上げる。いかに気落ちしているとは言え、黙って聞き逃すには、余りに矛盾する話だった。
「それは、お聞き違いではございましょう。これまでのお話からすれば、地平儀では、二十分までしか積もれぬはずでございまする」
「いや、拙者は、確かに二分と聞き申した」
武三郎の声に、些かの揺るぎもなかった。
――と、なれば、久米栄左衛門なる人物が大法螺吹きなのか、あるいは、単に言い間違えたのか……。
だが、嘉芽市は、何かしら心に引っ掛かるものを感じ、問いを重ねた。
「武三郎様、地平儀を御覧になった時に、何かお気付きになった点はございませぬか?」
「いいや」武三郎は、頭を左右に振り掛けた。
が、そこで「そう言えば……」と呟き、首の動きを途中で止めた。
嘉芽市の身体に、軽い緊張が走った。
「本当に大事な話は、こんな時に飛び出すのじゃ」などと、背中をせっつく声が聞こえる気がする。
武三郎は、宙に視線を泳がしながら、もったりと口を動かした。
「円盤の上に、二寸幅の真鍮板がござった。円盤の真ん中から端までの長さの板でござる。真鍮板の先っぽには、縦一寸横一寸半の四角い覗き穴が穿ってあり、板の上から覗き穴を通して、円盤の目盛りを読むようでござった」
方位盤で言えば、《座板》に相当する部分だった。嘉芽市は、肩に入れかけた力をゆっくり抜く。
「わざわざ真鍮板に穴を穿つとは、凝った造作じゃ」と、半ば、失望の混じった感慨に耽った。
ところが、続く武三郎の一言「真鍮板の先にも、目盛りが打ってござった」を、耳にして、嘉芽市の全身に、びりびりと電撃が走った。
(あ、あれは、何だったか? 先生の庵の何処かで見たような……?)
嘉芽市は、記憶の深淵に手を伸ばし、懸命に探る。忘却してしまった何かを掴み取ろうとした。呼吸が、はあはあと速くなった。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です