第三章 南蛮流町見之術 1

嘉芽市は、翌日、再び堀坂に向かった。
まだ暗い時間に屋敷を出発したが、堀坂に到着した頃には、陽は山形山の稜線から離れたところにあった。空には一つの雲も見えない。
真冬を思わせる冷たい風が顔を打つ。だが、嘉芽市は、身体の芯に、かっかっとした熱を感じていて、寒いとは少しも思わなかった。
前日と同じ場所には行かなかった。隧道の予定場所から、さらに二町ほど西に進んだ場所に歩を進めた。
今、嘉芽市の前には、鼈(すっぽん)の顎の部分に当たる裾野が、南面を見せている。
裾野の斜面からは、ごつごつとした岩が、幾つも顔を覗かせていた。
岩の間に疎らに生えた草は、葉色を、褪せた色合いへと変え始めていた。しゃあしゃあと鳴く虫どもの音に混じり、川の流れる音が、重く静かに響いている。
嘉芽市は、左目の隅に、きらりと強い光線を受けた。
「うん? 何じゃ」左手を蟀谷(こめかみ)に当て、光を遮りながら、光源を目で探す。
すると、堰(せき)倒壊を目の当たりにした件(くだん)の岩山が、朝日を反射し、縦に長い星形の光を発していた。
まるで、岩山が、「忘れるでない!」と、嘉芽市を責めているようだ。胸の奥に苦々しい痛みが走る。朝からの気持ちの高揚が、頭から水を浴びせられたかのように、萎みかけた。
「ふわあーっ」
背後から、間の抜けた欠伸が聞こえた。下男の声だった。嘉芽市は救われた気持ちになる。
今日、嘉芽市は下男を伴っていた。武三郎には知らせずに堀坂に来ている。
気を取り直した嘉芽市は、周囲を見回し、露頭した岩の中から、目印となりそうな岩を探し、岩頭に小石の角を擦りつけて刻印すると、前日と同様に裾野の坂を上り始めた。
嘉芽市は、背中に汗が滲み出すのを感じながら、右掌で包み込むように持った舟形の木駒を覗き込む。
「嘉芽市様、それは、なんでございますか?」下男の声がした。
「忍(しのび)の磁石と申すものじゃ」嘉芽市は、木駒を覗き込んだまま応える。
「嘉芽市様、どうして磁石なんぞを、お持ちになっておられるのですかい?」
「これから、この辺りについての詳しい地図を作るのじゃ」
下男は二回、こくこくと頷き、追加質問はしなかった。
嘉芽市の話を理解できなかったのではない。周介の教化活動により、田熊の老若男女に、算法を中心とした教養が、広く浸透していた。周辺の国・村からは、「田熊の算者」と呼ばれるほどだった。
下男の出で立ちは、袖口の広い麻地の小袖に、脚絆、草履――と、百姓そのもの。加えて、突き出た額の下には、落ち窪んだ目があり、笑うと並びの悪い歯がにゅっと突き出る――顔相には品の欠片もなかった。
しかし、顔付きに似合わず、嘉芽市の話を理解できる基礎的な素地を持ち、読み書きもじゅうぶんにこなした。


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