第七章 槌を振れ 4 (8月14日の投稿から連載している小説です)

周介は、嘉芽市の言葉を聞くと、満足そうに顎を上下させた。
続けて、絞り出すような声を喉元から発する。
「今、一つ、伝えねばならぬ。亀よ、田熊の算学を、頼む……ぞ」
嘉芽市は、耳を疑った。周介に算学との決別を宣言したはずだ。もう忘れてしまったのか?、周介は、声に熱を加えた。
「田熊の算学が、儂一代で終わってはならぬ。儂の意を継ぎ、算学の道を、さらに究め、また、村の者を教え導け」
算法の求道のみならず、田熊の村民の教化まで代わって行え、と言うのである。
瀕死の師からの言葉だ。しかも命の恩人からの依頼である。一言一言が限りなく重く、心胆に響く。このまま黙って聞き続ければ、否が応でも受諾せねばならなくなる。
そこで、良心に疼痛を感じながらも、辞退の意志を告げた。
「身共には、これ以上、算法の道を進む気持ちもなければ、教授する資格もありませぬ。先生の後釜に座るなど、無理な注文です」
だが、周介は、断固として受け付けなかった。
「亀が継がねば、田熊の算学が衰え行くは必定。お前は、百年に一人の逸材じゃ。儂の目に些かの狂いもない」
周介の熱情に引き込まれ、庵に通い詰めていた当時を想起した。
「斯ほどまでに身共の資質をお認めならば、何故、江戸に上るのをお許しにならなかったのですか?」
「俊才とは言え、未だ、学は八合目。田熊に留まり、儂が得た精髄を掴み取るのが先じゃ。中途半端な習熟では、江戸で会得する学術に染められ、根本を見失う。あくまで、田熊の算学を、より高めるための江戸遊学でなければならぬのだ」
嘉芽市は、ようやく師の本心を知った。周介は、嘉芽市の素養を、とことん愛していた。田熊の算学の後継者として、全てを嘉芽市に委ねる気なのである。
期待度は半端でない。なにせ、命まで捨てて、嘉芽市を守ろうとしたほどだ。


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