第六章 甲州流土木法 9 (8月14日の投稿から連載している小説です)

「よしっ、始め!」
号令を合図に、人夫どもが、油を入れた桶と柄杓を手に坑口に入って行った。
桶の油の波立つ音と人夫の足音が、交互に聞こえながら、小さくなって行く。
嘉芽市は、目でサキの姿を捜した。普請の成否を賭した挑戦を、サキにしっかり見届けて欲しかったのだ。しかし、人夫どもの中に、サキの顔はなかった。
岩に油を塗布し終えた人夫どもが出て来た。次は、いよいよ火付けである。
右手で無造作に松明を持った老石工は、何の躊躇もなく、すたすたと坑口に吸い込まれて行った。
人夫どもが雑談を止め、固唾を飲んで、老人が消えた六尺四方の暗闇を見詰めている。
嘉芽市も、老石工の無事を祈りつつ、坑口に目を凝らしていた。
隧道の奥で、ぼうっと音が響き、坑口の周りの枯れ草が靡いた。続いて、坑口から流れ出す空気が、次第に熱を帯びて来るのを、嘉芽市は顔に感じた。
一回……十回……二十回。着火の音が聞こえてから、嘉芽市は、己の呼吸を数えた。
ついに三十回となる。坑口から流れ出る風が、顔にひりひりと感じるほど熱くなって来ていた。
ところが、未だに老石工は出て来ない。いかに老いた足でも、じゅうぶんに戻って来れるはずだった。
「遅い……どうしたのじゃ?」
不安と焦りが昂じ、掌にぐっしょりと汗を掻いている。人夫どもの間にも、重苦しい空気が拡がっていた。
すると、熱風に押し出されるように、老石工がふわりと姿を顕した。
やきもきしていた嘉芽市は、やれやれと一安心する。
老石工の顔は、油煙を正面から浴びたらしく、煤で真っ黒に塗り潰されていた。
仲間の石工から声を掛けられ、笑顔になると、黄色い歯だけが闇夜に浮いているように見えた。現場に、和やかな笑いが広がる。
四半刻ほど待機していると、坑口から噴き出ていた熱気が弱まって来た。
「よしっ、次じゃあ」
水桶を持った男どもを、坑口に送り込んだ。
「熱っ! あちち、ち!」
次々と飛び込んだ人夫どもから、悲鳴が起こるが、老石工の勇気に力付けられたのか、果敢に奥に向かって行った。
やがて、降雨を思わせる音が、坑口から断続的に聞こえた。水蒸気が上がる音だ。幾ばくも経たぬうちに、男どもは、荒い息で引き揚げて来た。
「頭の皮が焼けるようですらあ――熱うて熱うて。それだけじゃあございませんで。岩に水を掛けると、ぶわっと湯気が噴き出しましてなあ、息が詰まりそうになりまする」
先頭で戻って来た男が、ぜいぜいと息を切らしながら、不満を嘆く。
しかし、何ら事故なく、奇手を成功させた嘉芽市には、賞賛の声の如く聞こえた。
「湯気が収まり次第、掘削を再開するのじゃ」
自信が総身に満ちるのを感じつつ、石工どもに命じた。武三郎を振り返り、「どうだ」とばかりに目を合わせに行く。視線の先には、周介の虚像があった。


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