清水次郎長を超える山陽の大親分岡田屋熊次郎を調べる(2)

岡田屋熊次郎の本拠地である宮内が、どのような経過で中国有数の歓楽街となったかについて簡単に説明しましょう。

時代は関ヶ原の合戦直前に遡ります。西軍総大将宇喜多秀家は、合戦の戦勝祈願を、吉備津神社で執り行いました。
ところが結果は、西軍の敗北に終わり、徳川家康は、これを重く見て、吉備津神社の社領一万八千石を一挙に百六十石へと減じました。これにより、もとは三百人もいた神官を八十余人へと減らさざるを得なくなりました。
それでも、寺社の運営には苦慮したため、幕府に、春秋二回、それぞれ三十日にわたり大市を開きたい旨を願い出たところ、認められました。さらに「御朱印芝居」と呼ばれる幕府の認可を受けた芝居興行も大市時に開催するようになり、大変多くの人が参集する結果となりました。
P1020076多くの人が集まるようになると、旅籠屋、酒屋、飲食店が次々とできていきます。初めは臨時の造りだったものが、常時営業可能なしっかりとした造りとなり、人手も不足してきたため、飯盛奉公人を雇い入れることを幕府に願い出たところ、これまた認許されます。
もう、おわかりと思いますが、この飯盛奉公人として臨時に婦女を雇ったことが宮内の遊郭の起源となるのです。

写真は吉備津神社の回廊の北側に見える駐車場。最初の芝居小屋はこの場所に建てられました。


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