正岡子規が見い出した流浪の歌人・平賀元義遺墨展から

津山市の旅館お多福で、「作州維新文庫第3回所蔵展 幕末の万葉調家人平賀元義遺墨展」が開催されました。ご存じ、旅館主の竹内さんが、コレクションの一部を公開されたものです。

平賀元義は、岡山藩士の家に生まれた歌人です。退藩して、播磨や四国、山陰を遍歴し、多くの門人に慕われつつも、不遇のままに、漂白の旅の中途で生涯を終えました。

しかし、没後、正岡子規により万葉調歌人として世に紹介され、一躍名を知られるようになりました。また、歌だけでなく、特徴ある遺墨も多くの人に珍重されています。

展示の中の一つ。「高島の神島山を見に来れば、磯間の浦に鶴(たづ)多(さわ)に啼く」

ちょこっと、私なりの検討をしてみたいと思います。

この高倉の神島山とは、岡山市の龍の口山示しています。龍の口山の周辺は、幕末には陸地だったはずです。つまり、「磯間の浦」とはおかしい。

また、「鶴(たづ)多(さわ)」にも、違和感を感じました。岡山県には、「高島」がこの句の場所とは別に、二カ所存在します。今年の冬に、そのうちの一カ所を訪ねました。児島湾に浮かぶ無人島です。海上を覆うかのように飛ぶ川鵜(かわう)の群れと、灰が降り積もったように糞で白くなっている寝場所の様子が強く印象に残っています。

そこで、海なら、鶴ではなく鵜ではないか、と考えました(間違っているかも知れません)。

つまり、元義は、現実の光景を見て、歌を詠んだのではない。万葉の時代・・・海が深く内陸に入り込み、龍の口山が海上の島として存在していた時の光景に思いを馳せて、創作した句だと思います。

下の写真は、高島にある神社の狛犬。天保年間に造られたものです。これまでの、お話とは関係ないけれど。

 


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