最終章 怒濤から得たもの(8月14日の投稿から連載している小説の最終回です)

文政六年(一八二三)の春。隧道が繋がってから三月が経った。
嘉芽市は、隧道普請の現場だった場所に立っている。隣にはサキがいた。
二人は、武三郎を弔うため、様々な想い出が蓄積した地を訪れた。
嘉芽市は、隧道貫通の五日後、陣屋を訪ね、清助に全てを報告した。
清助は、事態の重大さに戦いたのか、「亀よ、他言無用ぞ」とだけ、命ずるに留まった。
武三郎についての処置も曖昧を極めた。藩元に、武三郎が行方知れずとなったとの報告は為されたはずだったが、藩からの具体的な指示は、何も下りてこなかった。
幕府は、内紛が露見する事件を些かでも表沙汰にはしたくないのだろう。
結局、武三郎の死を含め、全ては闇に葬られた結末となった。
当然、武三郎の葬儀すら、行われず仕舞いだった。
故に、嘉芽市は、ささやかながら、サキとの弔いを思い立ったのである。
武三郎が水中に没した辺りに、二本の線香を立てた。抹香の匂いを吸い込みながら、膝を地に落とし、静かに合掌する。線香の火が絶えるまで、二人はじっと黙し、冥福を祈った。
微かな温もりを帯びた風が、耳元を撫でて行く。武三郎と頭を突き合わせ、夜明けまで普請の設計を語り合った場が、つい先日のように思い返された。
やがて、嘉芽市とサキは立ち上がった。示し合わせたように、二人同時に、南側坑口を見下ろす。
坑口からは、さあさあと音を立て、水が流れ出ていた。
サキは、春光に瞳をきらきらと輝かし、眩しそうに嘉芽市の顔を見詰めた。
「堀坂の者どもは、みんな、大喜びしております」
水流は、石垣を組んで設えた水路に導かれ、堀坂に拡がる田に繋がっていた。
嘉芽市は、隧道普請を、安全で確実な治水の仕組みづくりのために利用したのだった。
武三郎の捜索を打ち切った後、嘉芽市は、取水口となる北側坑口に上げ下ろしの水門を設けた。
加茂川の水位が通常ならば、豊かな水源を、隧道を通じて堀坂の田に供給する。ひとたび、川が荒れんとする姿を見せた時には、水門を閉じれば、洪水が防げる。
鼈(すっぽん)の口の先――岩山の光景を見た時に、脳髄を走り抜けた構想を、そのままに具現したのだった。石工三千九百九十人、役夫二千九百三十八人を要した工事だった。
サキが、小首を傾げながら訊ねる。一児の母親とは思えぬ、小娘のような愛らしさに、嘉芽市の頬が緩んだ。
「それにしても、せっかく、御公儀から有り難い任官の御話があったのに、どうして受けなかったのですか?」
将軍家斉は、嘉芽市の技能と采配を伝え聞き、高く評価した。そこで、天文方の家臣として江戸城に入るよう、迎えが来たのである。
ところが、嘉芽市は断った。
「田熊の地で、もっと算法の学びを深めばならぬ。いつ、先生が御元気になられてもよいように、代わりを務めておかねばならぬしな」
一昨年の大水で為した己の過ちを精算したと思うと、以前にも勝る算法への意欲が、むくむくと盛り上がって来た。
隧道普請で垣間見た江戸城内の汚濁の中に、身を投じる気にはならなかった。
純粋に、算法に自らの全てを投じたいとの決意を新たにしている。
サキは、期待通りの返答に満足したらしく、満面に喜びを浮かべた。
嘉芽市は、ちいさく胸を張ると、山形山の裾野を見上げる。
「この隧道は、単に、水の道を繋いだけではないのじゃ。儂にとっては、算法と人の心を繋いだ道なのじゃ」
静かにサキが頷く。
嘉芽市の手の上には、サキの白い手がそっと重ねられていた。(了)


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