小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 9

みしっみしっ――気味の悪い軋み音が暗闇の中で響く。
音の出所を推し量る必要はなかった。砦の内陣いっぱいに詰まった水が、前面にずっしりと圧力を掛けているに違いない。
嘉芽市は、サキの顔を思い浮かべた。堰が切れれば、当然の如く、水はサキの家を襲う。嘉芽市が、今から駆け出せば、水が弾けるまでにサキの家に到着できるかもしれなかった。危険を早く伝えれば、水難を回避できる可能性はある。
どおん、と、今度は、大きな打撃音が響いた。嘉芽市の身体が、不覚にも、びくりと動く。
「もう駄目じゃ。何をじっとしておる? 早う、サキのところへ走れ!」嘉芽市の中で、声高な叱咤が飛んだ。
だが、破局の最後通告とも思える音を耳にしてなお、嘉芽市は動かない。
堰がまだ崩れていない事実がある限り、「このまま保ち堪えてくれるのではないか」との期待を捨て去れなかったからだ。自らが為した業への愛着や未練に根ざした思いであり、算学士の誇り云々とは、また別次元の心理だった。
雨は上がっていた。分厚い雲は早々と去り、半月の光明が、薄い雲の膜を通して、地べたをうっすら照らし始めている。
温味を帯びた風がそよそよと流れ、嘉芽市の頬を撫でた。これまで、黙(だんま)りを決め込んでいた蛙が、けろけろと喉を鳴らし始めた。
大荒れの天気が嘘のように去り、今は、穏やかで温もりのある平穏な夜が、嘉芽市を包んでいる。
(保ち堪えたかもしれぬ)
どれほど時が経過しただろうか? 嘉芽市は、ふと心に浮かんだ楽観的な思いを、敢えて否定しなかった。なぜなら、打撃音以降、不穏な音はぴたりと途絶えたからだ。
堰の上流を覗き込めば、柔らかい月の光を浴びて、満々と溜まった水が、ぴかぴかと清明な光を照り返していた。頻繁に編成を組み替えていた兵団が、いつの間にか、動きを止めたように見える。
堰の強度を高めようと、根置の厚みを増した工法が当たり、最後の踏ん張りに応えた――このまま無難に乗り切れば、嘉芽市の知恵と算法の力が、土壇場で、大水を凌いだ結果となる。
「されば、やはり算法の力は……。儂は、何を迷っておったのか?」嘉芽市は、ゆるっと、頬の肉が持ち上がるのを感じた。
だが、嘉芽市の安寧は、つかの間の夢に等しかった。
突如として、どどおん、と、落雷を思わす轟音が響き渡るや、絡まった木々を八方に吹き飛ばし、無惨に砦は砕け散った。
天まで届くかと思うほどの高い水飛沫が吹き上がった。いくつのも波頭を拵えた夥しい量の水が、出番を待ち構えていた騎馬軍のように一気呵成に走り出す。
凄まじい水の動きは、周囲の空気まで揺さ振った。水垢と樹木の脂の混ざった匂いを孕んだ烈風が、川を見下ろす嘉芽市の顔や髪に、ぶおっと吹き付ける。
「あ、ああ……」
嘉芽市は、轟々と、凶暴な水塊が、餌食を目指して転がっていく様子を、痴呆の如く見詰める他はなかった。
びしゃっと、顔に冷たい水が掛かった。河床から、遙かに高い位置にいる嘉芽市のところにまで、撥ね水が飛んでくる。
嘉芽市は、ぎくりとして、岩に伏せていた身体を立ち上げた。激しい動悸が胸中を襲っている。空っぽになった頭の中で、サキの笑顔が、陽炎の如く揺らぎながら、薄らぎつつあった。
嘉芽市は、岩山から、急坂をどっどと駆け下りた。
「サキ! サキ!」口から泡を飛ばしながら、サキの村に向かい、遮二無二ひた走る。
二度三度と足を滑らせて転び、泥だらけになったが、気にする余裕はなかった。
道の中途からは、濁流の中を進まざるを得ない。嘉芽市は、水の中にどぶんと足を踏み入れ、流れに背を押されるように進む。
なんの指標もない。追分の位置も分からない。
が、迷う不安はなかった。洪水の流れに乗っていけば、必ずサキの村に辿り着ける――という、辛い確信があったからだ。
サキの村を眼前にした嘉芽市は、唖然とした。
「な、ない!」全てが流されていた。家も蔵も見当たらない。木も草もない。村が存在していた痕跡すら、ない。
人が住んでいた形跡など、何一つ残っていなかった。勢いを緩めた川が、たらたらと泥の荒野全体を洗うように流れているだけだ。
嘉芽市は、まだ、脹ら脛の高さほどの水位を残す流れの中に、がくっと手を衝き、膝を落とした。ひゃっとした水の底は、ぬるりと不快な泥の感触がした。


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