小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 8

岩山まで、あと一町のところで、嘉芽市は立ち止まった。
「なんじゃ、この静けさは?」
道は大きく西に回り込んでいる。一度は離れた加茂川に、再びぐっと近付いているはずだった。
ところが、ぽそぽそと疎らな雨が降り落ちる音以外には、水が弾ける音も、岩のぶつかる音も、さっぱり鼓膜に感じない。
神経を集中し、耳に手を添えて、周囲の音をぐるりと拾ってみた。しかし、結果は同じだった。
「おかしい。なぜ、川の音が聞こえぬのじゃ?」
嘉芽市は「道を間違えたのか?」と疑った。確かに、昼間と夜間では、風景の見え方は一変する。迷った可能性も考えられる。
だが、サキと分かれた場所以外には、方向を間違えそうな追分は、思い当たらなかった。
――と、すれば、嘉芽市のいる位置から、さほど離れていない場所に川があるはずだ。
嘉芽市の胸を、不吉な予感がざあっと過ぎる。
「まさか……? いや、そんなことは決してあり得ぬ!」
嘉芽市は、縁起でもない発想を、急いで打ち消しに懸かった。
最後の一町の道のりは、岩山に登る急な坂となっている。嘉芽市は、四つん這いとなって、草を掴み、岩山のてっぺんを目指して這い上った。
ぐちゃぐちゃで踏ん張りの利かない坂道は、普段に増して、足腰の力を要求した。
ようやく、岩山の頂上に辿り着く。はあはあと息が激しく乱れていた。四つん這いの姿勢のまま、岩の上から胸まで宙に突き出す。
「あ……あほな! ど……どうした……こと……じゃ?」
堰のある辺りを見下した嘉芽市は、掠れた声を途切れ途切れに漏らした。
先程、頭中を過ぎったばかりの穏やかならぬ光景が、そのまま目の前にあったからだ。
木々を複雑に捻り絡ませた巨大な砦が、大きな影となって、堰全体にのし掛かっていた。
もちろん、人間が建造した城塁ではない。上流から押し流されてきた流木の幹、折れた枝葉、塵芥が、堰に溜まり絡まって、上方に迫り上がっていたのである。
荒れ狂う激流の姿は見えない。岩の転がる音も消えていた。だが、砦の中では、続々と上流から押し寄せる増兵が渦巻き、力を蓄え、「いざ、討って出ん!」とばかりに出陣の合図を待っている。
砦の隙間から下流にびゅうっと噴き出した水が、しょろしょろと、申し訳程度の細い流れを形成し、仄かな水明かりを放っていた。
嘉芽市の心ノ臓は、どこどこと、けたたましく鼓動を打っている。
「どうしてじゃ? 蛇篭はどうした?」
嘉芽市は、誰もいない夜陰に向けて、あたふたと問い掛けた。もちろん、返事はない。続けて、周囲に助けを求めるが如く、きょろきょろと辺りを見回す。
すると、堰の上流から五町ほど離れた場所に、視線がぎえっと釘付けとなった――夜目にも明らかなほど、山肌が幅広く捲れ落ち、灰色の地肌が剥き出しになっていた。
「そ、そうか……。山が崩れ、川に流れ込んだのか……」
腕が付け根から抜け落ちるかと思うほど、がくりと肩の力が抜けた。
うち続く豪雨で、地盤が緩んだ山肌から多量の土石が崩落した。そのまま川の流れに乗って堰に押し寄せ、堰の底に次々と沈殿したに違いない。
せっかく、綿密な測量と計算で弾き出した洗堰の幅も、堰の深さが変化すると、全くの無意味と化す。
「岸から溢れんばかりに水嵩が上がれば、もはや、蛇篭には川の流れは導けぬ……」
かくして、毎度と変わらぬ洪水劇の準備が、あっと言う間に整った。
「結局は、天地の力の前では、算法の理屈なんぞ陳腐な茶番に過ぎぬ――と、言うのか?」
嘉芽市は、両拳で頭をがんと挟み付けた。算法の理論で堅牢に武装したはずの自信が、思いもよらない邪魔者の手で、こなごなに粉砕されてしまった事実に愕然とする。
「おまけに、なまじ堰を頑丈にしたがために、少々の水では破れず、ここまで水嵩が上がってしまった……とは!」
嘉芽市の口から、くっくっと、場にそぐわない笑いが吹き出した。皮肉な結末への自嘲が生んだ、苦く、黒く、くすんだ笑いだった。
ようやく嘉芽市は、今朝からの胸のざわつきの理由と、嘉芽市を堰に追い立ててきた者の正体を、はっきりと悟った。
嘉芽市は、算法の絶対的な力を信じながらも、本能では、長々と降り続ける豪雨に対し、底深い恐れと不安を感じていたのだった。
だが、嘉芽市が、胸中の本能の蠢きを認めれば、算法の万能性を疑う――という自己否定に繋がる。つまり、算法への圧倒的な信仰と本能との水面下の鬩ぎ合いが、嘉芽市に胸のざわめきや、苛つきをもたらしていたのである。
堰に急いだ行動も、同根だ。激しい葛藤に音を上げた潜在意識が、早く軍配を下して、争いに終止符を打ってしまおうとしたのだ。
嘉芽市の敗北は決定的だった。最悪の結末に向けて、刻々と時が進む。
もはや、堰の保持力に懸けるしかなかない。
「頼む。保ち堪えてくれい」
嘉芽市は、砦に向けて手を合わせ、祈り始めた。算学士としての誇りは、一切合切、消えていた。


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