小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 7

陽はすっかり落ちていたが、分厚く空を覆った雲が、何処からの光を反射して、微かな薄明をもたらしていた。
嘉芽市は、分かれ道に出た。右に入る脇道に進めば、サキの家がある村に行き着く。真っ直ぐ進めば、堰のある方角だ。
「か、嘉芽市……」
サキの呼び声に、嘉芽市は立ち止まり、振り返った。サキは、嘉芽市から二十歩以上も離されていた。よたよたと頼りない足取りで、嘉芽市のほうへ歩いてくる。
嘉芽市の横までようやく辿り着いたサキは、はあはあと乱れた呼吸が整いかけると、一唾ごくんと飲み込み、口を開いた。
「サキは、お義父様お義母様のところに行くけえ」
嘉芽市は「おう、そうせえ」と同意した。
分かれ道からサキの家までは、あと三町ある。たいした距離ではないが、無惨なほど、くたくたに草臥れきっているサキを一人で行かせるのは、些か気懸かりだった。
だが、嘉芽市には、一時も無駄にしたくない――との気持ちのほうが強く働いていた。
「儂は堰を見てくるけえ。サキ、気いつけて行けえよ」
嘉芽市は、あっさり言うと、サキから目を離し、足を踏み出した。
「嘉芽市、待って!」
背後から、サキが叫んだ。嘉芽市は上体だけを後ろに回す。
サキは笠を取っていた。髪に付着した水滴が、僅かな光を反射して、薄白い光を放っている。暗くて、表情までは読み取れない。
強めの風が吹いた。雨脚がざわざわと横にさざめき、幹を揺すられた木々からは、ばらばらと音を立てて、水滴が落ちた。
サキは、嘉芽市を呼び止めたくせに、なかなか口を開こうとはしなかった。
嘉芽市の足は、泥濘をぐじぐじと踏みにじっている。身体が勝手に先を急ぎ、落ち着かないのだ。苛つきを交えた声で、サキを促す。
「なんじゃ? 早う言うてみんか」
サキの口から、ふわと息が流れ出る気配がした。次いでサキの声が聞こえる。がっかりした響きが籠もっていた。
「ううん、ええわ。次に会うた時に話すけえ」
嘉芽市は、サキの思わせぶりな物言いが気になった。が、いつまでも同じ場に留まっているわけにはいかない。前に向き直り、堰に向けて進み出す。
「かめ……ち……」
五十歩ほど進んだところで、嘉芽市の背中に向かって、サキがまた何かを言ったようだった。しかし、雨音と泥濘を踏む音に遮られ、何を言ったのかは聞き取れなかった。
嘉芽市は、もう振り返らなかった。駆け足となって堰を目指す。
現在の場所から、五町も進めば、堰を見下ろす岩山に到着できた。
嘉芽市は、「儂の設計に誤りはないはずじゃ! 洪水など、起こるものか」と、頭の中で何度も繰り返す。
嘉芽市は、算法の素晴らしさと、無限とも思える力を強く信じていた。
巷(ちまた)には、算法を、算術の知恵を比べ合う、単なる愉しみの手段と見なしている者も少なくない。
が、嘉芽市には、「算法の持つ力は、そんなもんじゃないで」という確信があった。
師の周介について、伝説めいた奇譚がある。算盤を弾いて、米泥棒が稲を刈って盗む時と場所を言い当てた――というものである。
指定された場所に門弟が行ってみると、確かに、大八車に稲束を積んだ盗賊がおり、今や逃げ去ろうとしていたところだったらしい。
嘉芽市は、逸話を丸ごと信じるほどの軽率者ではない。それでも、算法を極めれば、周囲の者から見れば、千里眼とも思えるような予測は充分にできる――と考えていた。
嘉芽市自身も、これまで算法を、様々な機会に用いていた。多くは、普請の設計であったが、一度たりとも失敗めいた経験をした例(ためし)はなかった。
今回の堰の工事にしても、蛇篭に入れる石の量や、堰の増強に必要だった岩の量は、嘉芽市が測量と計算で弾き出した結果と寸分たりとも違わなかった。普請に必要な日数、人夫においても同様である。
妥協のない測量と精密な計算を駆使して為した堰は、自然の力にも打ち勝つはずである。
今回の大水も、算法の底知れぬ力を嘉芽市の目の前に体現する機会に過ぎない――と、嘉芽市は考えていた。

 


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