小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 6

進み始めてからずっと川に沿っていた道が、少しずつ川から離れ始めた。
地響きにも似た川の音は徐々に小さくなり、やがて聞こえなくなる。今は、さあさあと、雨の音だけが、辺り一面に響き渡っていた。
いつもは、我が世の春とばかりに鳴き声を連ねる蛙どもも、すっかり鳴りを潜めている。
サキの濁った呼吸の音が、ぜえぜえと嘉芽市の耳道の壁を擦った。
サキは、嘉芽市から遅れ始めていた。今は嘉芽市より十歩ほど後方にいる。言葉を発する機会も、めっきり減っていた。
嘉芽市がサキに歩調を合わせ、行き足を緩めれば、サキを楽にできる。
が、嘉芽市には、進みを遅らせる気は全くなかった。
今朝から嘉芽市の心に居座っている胸のざわめきが、締め付けるような切迫感へと変貌し、嘉芽市を追い立てていた。
堀坂に近付くに連れて、前に前にと嘉芽市を突き動かす衝動は、さらに強さを増している。
「か、嘉芽市、む……向こうから誰か来る」
後から、辛そうなサキの声が小さく聞こえた。嘉芽市は、はっとして、前方を見据える。
すると、二、三本の提灯が、ふらふらと弱々しい光を揺らしながら近付いてきていた。
十名ほどの人影が列を拵えていた。小さな影も混ざっている。女子供が列に加わっているようだ。
足下から、ぐちゃぐちゃと泥濘んだ音を鳴らし、一団は嘉芽市の近くまで来て止まった。見れば、皆、沢山の荷物を背負い、両手いっぱいに抱えている。
嘉芽市の口中を、苦々しい汁気が、じゅっと満たした。見たくない光景を見せられた――という感覚だ。
提灯を持ち、列の先頭を歩いていた四十がらみの男の顔には、見覚えがあった。堰の普請の際に、他の村人と一緒に、現場で働いていた男だ。
「あんたら、もう、奥へは行かんほうがええぞ」
男は、野太い声で嘉芽市に伝えた。暗さ故に、相手が嘉芽市とは気が付いていない様子だ。
「儂らあ、堀坂から逃げてきたんじゃあ。こんだけ雨が降りゃあ、また堰がめげ(壊れ)るかもしれん」
嘉芽市の胸の下方から、熱を帯びた、こなれの悪い塊が、くわっと持ち上がってきた。
(何故、儂の設計を疑うのじゃ? )
男が、堰の設計者が嘉芽市である事実を知らぬはずがない。なのに、男は、堰が決壊するかもしれない――と、考えているのだ。
サキと同様に、知識不足が原因――と、解釈すれば、腹を立てる必要はなかった。
が、サキが単に不安を口にした時とは状況が違う。男に率いられた者どもは、実際に危険回避の行動にまで出ているのだ。
さらに、不安げにおどおどと嘉芽市を見ている女子供の顔や怯えた動作が、嘉芽市の神経をざりざりと逆撫でする。
堰への不審は、嘉芽市の存在そのものを認めない意思と同義にすら思えた。
嘉芽市は、むっとする感情に支配され、前に一歩、じりっと踏み出す。男どもを許せなかった。
「身共は、田熊の中村嘉芽市じゃ」胸を反り返らせ、怒気を含めた声で名乗る。
足の下でにゅるりとした感触がして、青臭い匂いがつんと立ち上った。蕺(どくだみ)を踏みつけたようだ。
男は、嘉芽市の名を聞くと、「ああっ」と、小さな声を漏らした。が、同時に、嘉芽市の喧嘩腰の口調に色めき、目を光らせてもいる。
サキが、嘉芽市と男の間に細い身体を滑り込ませ、口を挟んだ。
「おじさん、サキです。お義父様お義母様は、一緒ではないのですか?」
男は、力んで持ち上げていた肩を下ろすと、親しげな声を出した。
「おお、サキか。面目ないが、我が屋のことで精一杯でな。他の家のこたあ、分からんのじゃ。逃げずにおる者も何人かいるらしいで。もしかしたら、宗市っつあんらは、まだ家におるかもしれん」
サキが割り込んだお陰で、嘉芽市は幾分かの冷静さを取り戻せた。すると、怒りよりも切迫感が優先した。
サキは、まだ男に、養親の安否について聞きたい様子だった。だが、嘉芽市は、男とサキの会話を遮り、先を急ぐよう促した。
「もうええ、サキ、行くぞ」
嘉芽市を追い立てているものの正体が露わになってきていた。が、嘉芽市は、断じて、正体なるものを受け容れるわけにはいかなかった。


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