小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 4

雨の勢いが、急に弱まった。代わりに、噎せた空気が嘉芽市を押し潰すように取り囲む。
嘉芽市は、息苦しさから逃れるため、一息「はあ」と吐いてから、強い語調でサキを諫めた。
「大丈夫じゃ! あの堰が、壊れるはずはない。いかなる大水にも耐えうるように、儂が設計し直し、この冬に、村人総出で普請したばかりじゃ」
「知ってる。でも……」サキは不安が拭いきれぬらしい。三日月型の目の中で、瞳を細かく震わせている。
サキは、昨年の夏から周介の庵で算法を学び始めたばかりだった。サキの不安は知識不足が故に生じている――と、嘉芽市は判断し、堰の構造についての説明を試みた。
「此度の河普請では、川除(かわよ)けの技を用いたのじゃ。これ即ち、蛇篭(じゃかご)(竹で編んだ大きな円筒の筒籠の中に石を詰め込んだもの)を、堰の手前にある取水口の上流から、堰の中央に向けて斜めに並べた。さすれば、川の流れは蛇篭に導かれ、向こう岸寄りの堰に向かう」
堰は、川の幅いっぱいに作られている。嘉芽市は、堰の機能を、木や塵芥の蓄積場所と洗堰(あらいぜき)(余分な水を越流させるための堰)に、二分したのだ。


増水時に上流から運び込まれた木や塵芥は、蛇篭で形成された流れに乗り、いったん、澱みとなる対岸側の堰に集められる。
「向こう岸側に木や塵芥を残した川水が、蛇篭の間を抜けて取水側の洗堰に戻り、下流へと流れ出る。これならば、堰に流木が押し寄せても、過分に水は溜まらぬ」

 

「でも、嘉芽市。仮に、洗堰の幅が元の堰の半分になれば、水嵩は倍となるで。これでは、かえって水が溢れ易うなってしまうのでは?」
サキの質問は、初学者とは思えぬほど、当を得た内容だった。
嘉芽市は、サキの疑念を払うべく、より詳しく設計の過程について説き聞かせる。
「サキ、よう聞け。儂は堰の設計に懸かる前に、川筋に住む古老を訪ね、今までで最も水嵩が上がった時の様子を聞いて回ったのじゃ。加えて、川幅を積もった。最高の水嵩に川幅を乗ずれば、これまでの最大の水の坪数(断面積)が算出できる。次いで、堰のある場所の岸から川底までの深さを積もった。先程に求めた水の坪数を深さで除せば、必要な洗堰の幅が分かる。あとは、必要な幅を取るように蛇篭を配置するだけじゃ」
「そうかあ。河の流れを見ているうちに、つい怖(こお)うなってしもうたんじゃ……」
サキは、甘ったるい声で返事をした。嘉芽市の弁舌にうっとりと酔っている様子だ。
目を艶っぽく潤ませ、嘉芽市の顔を頼もしそうに見詰めている。
「それだけではないぞ。堰の根置(ねおき)(堰の底の幅)を拡げて法(のり)(堰の側面の勾配)を緩くし、より頑丈にしたのじゃ」
嘉芽市が、堰の強化の話を付け加えた理由は、サキの顔を見て調子に乗ったためではなかった。
落ち度など何一つない事実を、サキとの会話で再度確認した――斯様に思った途端、 理由の判然としない、ぞわぞわとした胸騒ぎが突き上げてきたからだ。
嘉芽市は、口を動かしている途中から、サキではなく、あたかも己自身を一生懸命に説き伏そうとしている感覚に陥っていた。
再び、雨脚が強まった。しばしの休息を補うかのように、凄まじい勢いで降り注ぎ始める。
嘉芽市の足は、はたはたと堀坂に向かって歩み始めていた。
「ねえっ、嘉芽市。何処に行くの?」背後からサキの声が微かに聞こえる。
嘉芽市は振り返り、慌てて言葉を取り繕いながら、大声でサキに怒鳴った。
「掘坂じゃ! 心配は要らぬが、とりあえず様子を見てくるけえ。サキは儂の屋敷で待っておれい」
だが、サキには、嘉芽市の指示に温和しく従う気が、まるでないようだ。
「いやじゃ! 一緒に行く! お義父様お義母様が心配じゃけえ。それに嘉芽市に、もしものことがあったら……」
サキは、ずっしりと重くなったであろう蓑を引き摺りながら、ぴょんぴょんと撥ねるような足取りで、嘉芽市の後を追ってくる。
「しゃあないのう」
嘉芽市は、仕方なくサキの同行を追認した。
暮れ六ツを迎えていた。なだらかな山々が、薄暮と降り落ちる雨の中に霞み、ぼんやりとした影となって、薄鼠(うすねず)の空に浮かんでいた。


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