小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 3

一刻(とき)半の後。
嘉芽市とサキは、加茂川の河岸に立ち、白濁した怒濤が切れ目なく寄せる川面を見詰めていた。
加茂川は津山川(後世の吉井川)の支流で、田熊の西側を流れており、一里ほど下流で津山川に合流する。
加茂川の水位は、昨日に比べ、格段に上がっていた。足下に水面が迫るまで、幾ばくも間がないように思える。
濁流の轟音に混じり、川の底から、ごつんごつんと、不気味な音が響いていた。
「ねえ、嘉芽市」
サキは、蓑を巻いた身体を嘉芽市にぐっと押しつけ、嘉芽市の笠の中に首を突っ込んできた。
ぷうんと甘い香りが漂い、嘉芽市の鼻孔を擽る。嘉芽市は、先程までの熱い逢瀬が身体の芯に蘇り、かっと腹の底に窮屈な感触を覚えた。
サキは、嘉芽市よりも一回り小さな笠を首の後ろに回すと、嘉芽市の耳元に口を寄せ、さくさくと囁く。
「あのごつごつした音は、なあに?」
嘉芽市の背丈は五尺余り。サキは五尺に少し足らない。サキが背伸びすれば、ちょうど嘉芽市の耳の高さにサキの口が来る。
「あの音はな、川底の大岩が、ぶつかり合いながら転がっていく音じゃ。 激しい川の流れに、突き動かされているのじゃ」
嘉芽市はサキの問いに答えながら、右手の指先で笠の先をくいっと持ち上げ、硬質な音の源を目で確かめようとした。
が、分厚く暗い水が、嘉芽市を中に誘い込もうとでもするかのように、淫蕩にうねりくねっている様子が見えただけだった。
依然、雨は勢いを緩めていない。
びしびしと礫を打ち当てるような雨の勢いに、廻し合羽に含ませた柿渋は、ろくに役にも立たっていなかった。滴るほど水分を含んだ厚手の布が、両肩にじっとりと重みを課している。
嘉芽市は、心中で、厳しく己を責め立てていた。
周介の庵を出てから、すさみ、荒ぶった気持ちをサキの身体にぶつけ、癒しを求めた。
が、己を放ち、高ぶっていた熱が冷めると、今度は、猛烈な悔恨の念が胸を焼き焦がし始めた。
算法のみならず人生の師としても尊敬して止まない周介に、侮蔑とも取られかねない言葉を放ったうえ、飛び出してしまった。
周介の怒りは、想像して余りある。破門されても文句は言えない。
師を失うばかりではない。周介の庵で、同朋と楽しみ学び合う場こそは、嘉芽市にとって、何物にも代え難い機会ではなかったか?
さらに、江戸に出て学ぶ――という発想も、実は、「作洲に算仙あり」として広く名を知られた周介の後ろ盾抜きには実現が難しい事実にも、改めて気づく。
すなわち、周介から破門されれば、積年の夢を達成する道も自ずと閉ざされる結果となるのだ。
嘉芽市は、今の自分にとって最も大切だったもの全てを一挙に失った気がして、途方もなく寂しい気持ちに囚われた。
(なんで、あのような詰まらぬことを放言してしまったのか?)
頭を冷やせば冷やすほど、自らの言動と行動の愚かさが嘉芽市の身に沁みてくる。
傾けた笠の後ろから、ぼたぼたと水滴が垂れ、嘉芽市の首筋を伝わった。滴は背中に流れ込み、左右の肩の間をひやっと竦ませた。
嘉芽市は、はっとして、意識を身体の内面から外界へと戻す。
サキが嘉芽市から身体を少し離していた。やんわりとした山型の眉をくねらせ、形の良い唇を尖らすと、不安げな声を発する。
「お義父様、お義母様は、大丈夫じゃろうか? 早う、帰らなくては」
サキは一昨年の夏に、嘉芽市の叔父である中村宗市の養女となっていた。宗市の屋敷は田熊から一里半北の堀坂(ほりさか)にある。
サキの懸念には根拠があった。加茂川が氾濫するときの被害は、堀坂に集中していたからだ。
水害の原因は、加茂川の河水を堀坂の田に導くために積まれた堰にあった。
川が増水すると、上流から運ばれた木々や塵芥(ごみ)が堰に蓄積し、必要以上に川を堰き止める結果となる。
最後には堰ごと崩れ、溜まりに溜まった水が、激流と化し、一気に堀坂の田畑や住居を襲うのだ。
が、他に有力な水源を持たない堀坂では、加茂川の水は生命線だった。堰の存在抜きには、堀坂の稲作は成り立たない事情があった。


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