小説「隧道を穿(うが)て」 第一章 怒濤に失ったもの 2

雷が一閃すると、雨の勢いが一際増した。滝の如く雨滴が落ち始める。
周介は剃髪した頭をてらりと光らせ、嘉芽市を一喝した。びしっと通った鼻筋から左右に突き出た小鼻を、大きく膨らましている。
「この愚か者めが! 早過ぎる――と、申したであろうが! 亀! お前はまだ若い。この地で学ぶことも、まだまだ数多くあるのじゃ。もっと精励してから江戸に上っても、何ら遅うはない」
嘉芽市は、上下の顎を左右に捻り擦り、歯を軋ませた。周介に対し、猛烈な反感を覚えたのだ。これまでに感じた記憶のない、激しい感情の高ぶりだった。
今朝から、理由の定かでない蟠(わだかま)りが、もやもやと心の底で滞っていた。気持ちがざわめき、ちょっとした刺激にすら、心が過剰に反応した。

「先生は、身共の才を妬んでおられるのじゃ……」などという思いが、嘉芽市に、打ち消しても打ち消しても、沸き起こって来る。

師と一番弟子の遣り取りを、嘉芽市とともに算法を学ぶ朋友たちが、顔を強ばらせて見ていた。幼馴染みで一歳年上のサキも、引き攣(つ)った表情を見せている。
周介は、医師業の傍ら、向学の志ある地域の若者を集めて算法を教えていた。美作国勝北郡広野庄田熊(たのくま)にある屋敷の中に庵を造り、生活の場と教育の場を兼用している。
だが、いつものほのぼのとした学舎(まなびや)の雰囲気が、今は、がちがちに凍り付いていた。庵の内側を取り巻く質素な土壁と無地の襖が、冷え冷えとした空気を余計に際立たせている。
強い風が唸り声を上げ、雨脚をばらばらと乱した。
嘉芽市は、ついに決定的な言葉を吐いてしまう。
「いえっ! もう、田熊には、身共が解けぬ問題など、ございませぬっ!」
「師を軽んじておる」と思われても致し方ない発言だ。「いけない、いけない」と思いつつも、嘉芽市は己の感情を抑制できなかった。
言い終わるや否や、ぐいっと立ち上がり、土間に飛び降りる。嘉芽市は、もはや庵の中に居場所を失った気がしていた。
このまま飛び出そうと、縞地の廻し合羽と笠を、がさがさと身に纏った。じっとりと湿った感触が、後悔の念と、己自身への不快感を募らせる。
いよいよ飛び出そうとした時、滑らかな感触が、するりと嘉芽市の右腕を包み込んだ。 嘉芽市は、硬直した筋がふっと緩むのを感じた。横を向くと、サキが嘉芽市の二の腕を両腕に抱きかかえて、俯いている。嘉芽市を追い掛けてきたに違いない。
嘉芽市は黙ったまま、サキの腕を引っ張るようにして、周介の屋敷の門を出た。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です