「ありがとう」と言わせて欲しい。朝のできごと。

出勤時の道すがら、「ちょっとすいません」と、高齢の男性に声を掛けられた。
視覚が不自由な方だった。とある医院に行きたいので、周囲に目的の医院が見えるか教えて欲しいのだという。

見回してみたが、それらしい看板はなかったので、「この周りにはないようです」とだけ告げ、職場へと向かった。
時間に余裕はあったが、手を取って一緒に医院を探すのは憚られた。この男性が余計な援助を求めていない気がしたからだ。私自身も、べたべたとした親切をするのが嫌だった。
だが、男性から遠離るにつれ、大事なものを落とし忘れたような気持ちになっていった。

すると、件(くだん)の医院の場所を示す矢印が、ふと目に入ったではないか。
私は、急いで男性のところに駆け戻った。
「場所が分かりました。こっちです」医院とは逆方向に歩き始めた男性の腕に手を添え、向きを変えるよう促す。
「一緒に行きましょう」
さっきは言えなかった言葉が、今度は素直に出た。ただ、男性は不本意な表情で、「場所は分かっておる」という雰囲気を漂わす。腕を取って誘導されるのも好まない様子だった。プライドの高い方のようだ。

そこで腕は取らず、男性に並び、声を掛けつつ歩いた。次の十字路に差し掛かると、目的の医院が現れた。「あったー!」意外に近くだった。
「そこ、そこですよ」声を掛けても、男性は別段、表情を変えない。その時、医院の看板を見て一番嬉しかったのは自分だった、と悟った。

時間が早いためか、医院はまだ閉まっていた。そのことを告げると、男性は、苦笑交じりの「しまった」という表情を浮かべた。
何回か受診した医院のように思っていたが、よく聞くと始めての来院だった。そこで、腕を取らせてくれるよう頼み、医院の入口の場所を確認してもらった。ここまででじゅうぶんだと思い。通勤の道順に戻った。

男性は特に何も言わなかった。それでいいのだ。
感謝して、「ありがとう」と言いたかったのは、私だったからだ。


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